稲垣良典氏の近著『トマス・アクィナス――「存在」の形而上学』(春秋社)を一読した。 「存在の類比」と言われてきた考えについて、初めていくらかわかったような気がした。どうも、アリストテレスのそれとは、まったく違うもののようである。アリストテレスでは、たとえば「健康的」などという言葉が、さまざまの対象について、異なる意味合いで述語づけされるとされるが、それらには中核的な意味(一者との関係)があり、それとのさまざまの関係で、それぞれ違う意味で「健康的」と言われるのである。「健康的」の中核的意味は、おそらく身体の滞りなく生命活動ができる状態であろう。「健康的な食品」とは、そのような状態を促進する(原因となる)食品であり、「健康的な顔色」とは、そのような状態の人の身体的特徴の一部である…。 トマスにおいては、他のキリスト教神学者においても同様だろうが、神と被造物の間の共通な述語の意味が特に問題となる