●以下は、便所の落書きというか、親父のぼやきというか。 ●政治を、最適解の計算によって置き換えたいという欲望をもつ人が一方にいて、もう一方に、そのようなことに対する強い抵抗が存在する。そこにあるのは、最適解(幸福)と平等(正義)との違いであるように思われる。 例えばベンサムの功利主義(最大多数の最大幸福)というのも、最適解によって政治(共同体の因習やイデオロギー)を括弧に入れたいということだろう。だがここで問題になるのは、(1)そもそも幸福を定量化できるのか(幸福の足し算、わり算が可能なのか)ということと、(2)仮に定量化可能だとして、その最適解の計算は複雑すぎるということがあるだろう(明らかに無意味で非合理的だと思われる慣習が、実は複雑な状況のなかで思わぬ形で効いているのだ、というようなことは十分にあり、それはソリッドなロジックによって知ることはできない、と、これはコミュ二タリアンの主張