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2018年12月10日のブックマーク (1件)

  • 奥州藤原氏四代泰衡は、本当にダメな男だったのか?

    ここで気が付くのは、文治5年4月30日に泰衡が義経を襲撃したとされる事件から、事態が急速に動き出し、そのわずか4か月後には奥州藤原氏が滅亡していることです。それ以前、秀衡が亡くなってからの1年半はどんな状況だったのでしょうか。まずは、秀衡が死の床にあって泰衡たちに託した遺言について確認します。秀衡は、次男の泰衡(当時33歳)を後継者とし、長男の国衡には、兄弟の仲をこわさぬよう約束させました。そして、義経(当時29歳)を大将軍として奥羽の国務を任せ、泰衡、国衡には義経を主君として仕えるように遺言しました。そして、三人に起請文を書かせ、三人一味となって頼朝の攻撃に備えるよう言い残したと伝えられています。 泰衡は、秀衡が亡くなってから1年半の間は、この遺言を守り続けました。鎌倉幕府を迎え撃つために、福島盆地の北と南に大規模な土塁と空堀を築き(阿津賀志山と石那坂)、頼朝軍の攻撃に備えたといいます。