仁徳天皇が作ったコリアタウン 大坂生野区の鶴橋は西暦400年頃までには渡来人居住地になっていて、猪飼野と呼ばれていました。 日本書紀によると仁徳天皇14年11月に、『猪甘津(いかいのつ)に橋わたす』と記されています。 仁徳天皇は西暦420年代崩御したが、渡来人を大阪に連れてきて労働者として大阪湾埋め立てなどに使役したとされる。 それだけではなく渡来人の居住地や住居にも気を配り、自ら渡来人居住地を視察したほどだったという。 当時の大阪湾は海が土砂で埋まりつつあり、海岸線は中央区あたりにあり、沖には百済洲と新羅洲があった。 百済洲は百済人居住地の島で現在の浪速区とほぼ等しく、新羅洲は新羅人居住地の島で現在の西区と中央区の一部にあたる。 新羅洲と百済洲から近い中央区から大阪城にかけてが高台で、生野区は入江になっていました。 生野区の鶴橋は当時猪飼野と呼ばれていて、半島人が猪を飼育して肉を食べてい