江川 英龍(えがわ ひでたつ、享和元年5月13日〈1801年6月23日〉- 安政2年1月16日〈1855年3月4日〉[2])は、江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太郎左衛門(たろうざえもん)、号の坦庵(たんあん / たんなん)の呼び名で知られている。韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読むことが多い。 日本列島周辺に欧米の列強の船舶がしきりに出没するようになった時代において、洋学とりわけ近代的な海防の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方の一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入りを果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。 また兵糧として西洋式のパンを焼いたことから、現代では「パン祖(そ)」とも呼ばれる[1]。 生涯[編集] 江川家は大和源氏の系統で鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄である[3][4]。代々の当主は太郎左衛門を名乗り