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ブックマーク / gitanez.seesaa.net (5)

  • バタイユ/酒井健: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 バタイユは、生を個体の問題としてではなく、生そのものの連続性として扱う。 酒井健さんの『バタイユ』を読んで、いちばんつよく感じたのはそのことでした。 そして、おそらく僕がバタイユに惹かれるのもそこに要因があるのだろうと思います。 脱自、共犯関係、見世物として恍惚や笑いなどの情動をひきおこす供犠、主体の半壊状態を通して得られる個を超えた交流的な体験。 こうしたキーワードによって、個―個人、私企業、国家―の延命に重点が置かれる近代が忘れ去った、個を超えた全体としての生の連続性に注目し、それを近代の世に知らしめようとことばを紡ぐバタイユに、僕はつよく惹かれるのです。 バタイユは、技術および技術が生みだした物品に「物の力」を見て警戒していた。ちょうど「言葉の力」を警戒していたように

  • 早く多く間違えよう: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 土曜日のデザイン思考のワークショップで、また1つ気づきがありました。 それは「早く多く間違えると、進展は早い」ということです。 今回のワークショップでも、例によって2チームに分かれて、それぞれおなじ課題をやってもらいました。 大抵の場合、そうなるのですが、どういうわけか、2チームに分けると片方の出来がよく片方がわるいという結果になるんです。なぜだかわからないんですが、大抵はそういう結果になる(これが3チームだとそうならない。なんでだろ?)。 ところが、土曜日のワークショップでは、いままで以上に2チームの差が大きかったんです。それは片方がいままでと比べて著しく出来が悪かったからではなく、片方がこの手のワークショップをやって以来、はじめてというほど、出来がよかったからなんです。

    toteri
    toteri 2009/08/04
    try&errorが人を成長させるということ。
  • 異形の王権/網野善彦: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 このは中世において「異類」または「異形」と呼ばれた人びとにスポットをあてています。 例えば、中世、河原で行われた罪人の処刑の執行を実際に行ったのは「放免」と呼ばれる非人たちでした。「放免」は、彼ら自身が前科のある者でありつつも、その罪に対する罰則を文字どおり免れた放免囚人で、検非違使庁の下級刑吏として犯罪者の探索・捕縛・拷問・処刑を職能とした人びとです。彼らは口髭、顎鬚を伸ばし、特殊な祭礼時や一部の女子にしか許されなかった綾羅錦繍、摺衣と呼ばれる派手な模様のある衣服を身につけていたといいます。 また、牛車に付き添って牛の世話をする牛飼童は、成人しても童形をした人びとで、烏帽子をつけず髻(もとどり)を結わず垂髪、口髭や顎鬚を生やしていたといいます。成人になっても童形をした人

  • なぜ量が質を生み出す可能性を持っているのか?: DESIGN IT! w/LOVE

    ある陶芸のクラスで、質を追求するグループと量を追求するグループに分けたところ、実際に質の良い作品が数多く見られたのは、量グループだったという話。 質を求められていたのは「質」グループのはずだったのに,なぜ質を求められていなかった「量」グループの生徒たちが,質で上回る結果になったんだろう? これが事実として成り立つからこそ、ブレインストーミングでもアイデアの質より量を問うんですよね。このブログでも、再三にわたって「まずは手を動かそうよ」といってるのもそういうこと(cf.「小さなアウトプットの蓄積で完成形を生み出すための5つのプラクティス」「みんなで手を動かしながら考えるということを図にしてみました。」)。 先の記事中にも「質」より「量」が結果として「質」を生む理由として「多くの作品を作り出す過程において失敗を繰り返し、その失敗から多くのことを学ぶことができた」と書かれていますが、そのことにつ

  • 失敗学―デザイン工学のパラドクス/ヘンリ・ペトロスキ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 必要は発明の母である。 この僕たちが抱くあまりにもロマンチックすぎる幻想を、著者のペトロスキはのっけから破壊してくれます。 「必要は発明の母」というが、発明の母になるのは必要ではなくて欲望である。新しい事物や、事物についての考えは、現存する事物に対するわれわれの不満から、また、われわれがかくなされてほしいと思うことを満足になしとげてくれる事物がないことから、発している。より正確に言えば、新しい人工物や新しい技術の発展は、既存の事物や技術が、約束通りに、または当初希望され想像されえた通りに働いてくれないことから生じるのである。 新しいものは何の前触れもなく突然舞台に現れるのではないということです。 創造に対するあまりにロマンチックすぎる思い込み新しく舞台に登場したものは、所詮

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