ブログが死ぬのはブロガーが更新をやめたときではなく、そのブロガーに対する読者の信頼、目には見えないが確かに存在する信頼が、失われたときである。
ブログが死ぬのはブロガーが更新をやめたときではなく、そのブロガーに対する読者の信頼、目には見えないが確かに存在する信頼が、失われたときである。
どんなブログにも、最初の読者というものはいる。 一日数千のアクセスが普通になってしまったブロガーにも、忘れがたい読者というものはいるだろう。私にとっても最初の読者というものがいたし、その人は忘れることのできない記憶としてある。 男が童貞を捨てた相手を忘れられないように--余談だが、女とは処女を捨てた相手をすぐに忘れることができる生き物だ--ブロガーにとって、最初にそのブログが読まれた体験、言葉が届いた体験というものは、忘れがたいものである。 エントリというものは文章がそこに置かれているだけで価値がでるものではない。例をあげれば、たとえばあなたの部屋には、読んでもいない本が山となって積まれてはいないか。 その本はあなたが偶然手にとって読み、そこにあなたのために書かれた一文を発見したとき、初めて価値あるものとして光を放つのである。 読むということはそういうことではないか? それは一度限りのかけ
引越しの日を間近に控えたある日の夕方、私は東南アジア時代の同級生であるFと回転寿司を食べに来ていた。Fは私が通っていた某南国の国際校の同窓で、いまは日本に住み、転職を繰り返しながら生活をしているようである。Fに限らず帰国組の中には、国の外で育った人間を外人として取り扱い、差異を捨象して同一化を強制する日本の社会に馴染めず、転職を繰り返すものが多い。大多数の人間が右を向いているとする。その時黙って同じように振舞うことが暗黙の了解であり美徳であるとされる国。このとき、なぜ私は右を向かなければならないのか、そうしなければいけないとすればその理由は何か、という自発的な問いかけが尊重される多民族国家で養われた「個性」というものは、日本という単一民族幻想と単一言語幻想がまかり通る国では、ほとんど欠点でしかないようである。 さてそんなFは、私が三人+猫一匹の住居の荷物の荷造りをするのに大変だろうというこ
毎日のように買っておいてなんだが、この飲み物を考えた人間は頭が相当おかしい。 まずネーミングのセンスが馬鹿だ。アイス・キューカンバー。氷胡瓜。とてもではないがキュウリを食べたことがある人間が名付けたものとは思えない。キュウリだけならまだしも頭にアイス。購買者を舐めているとしか思えないこのセンスがまずすばらしい。 そしてこの色。人工着色料以外にありえないエメラルドグリーンのこの液体。この色にしようと決めたのはいったいどこの誰なのか問い詰めたいところだが、この色に関して「カラダに悪そう」とか言って否定的な意見を述べた同業者を見かけた。お前は何を言っているんだ。ペプシはカラダに悪くてナンボである。カラダにいいペプシなんぞ飲む価値なしであり、この色を選んだセンスにも脱帽だ。 またこの味。キューカンバーと銘打っておきながら無果汁と堂々と書いてあるのに脱力するが、この色でかつこの名前なのだから、そもそ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く