ちょっとの幸せのほうが、純度が高いのだ。でっかい幸せはノイズが多い。だから、毎日ちょっとずつ幸せというのが本当の幸せである。そして、小さな幸せをがセンサに引っ掛かるかどうかも重要である。 ということを考えた。喜びが大きければ大きいほど、素直に喜べないことが多い。 あんまりでっかい幸せに今まであわなかったからかもしれないけど、なんとなく真理である気がする。
ちょっとの幸せのほうが、純度が高いのだ。でっかい幸せはノイズが多い。だから、毎日ちょっとずつ幸せというのが本当の幸せである。そして、小さな幸せをがセンサに引っ掛かるかどうかも重要である。 ということを考えた。喜びが大きければ大きいほど、素直に喜べないことが多い。 あんまりでっかい幸せに今まであわなかったからかもしれないけど、なんとなく真理である気がする。
電車に乗ると、いつも考えることがある。それは「僕は何をすべきだろうか?」ということ。文庫本を読んでもいいし、音楽を聴いてもいいし、ケータイをいじってもいいし、勉強をしてもいいし、風景を眺めることもできる。いつも電車に乗るときは、そういうことができるように用意はしてある。というか、ipodやケータイや単語帳や文庫本はいつも持ち歩いている。かさばるものでもないのでかばんに入ってる。でも何をして良いのか分からなくなってしまう。 長い目で見て実用的なメリットがあるのは勉強をすることだろう。でも電車の中でやるべきことだろうか?そういう時間の使い方をしたいんだっけ?今重要なのはそんなことだっただろうか。晩のおかずのことを考えたほうがよいのではないか? たぶん僕は「電車に乗る」をしている。あんまり乗る機会が無いものだから慣れていないのだろう。で、相変わらず何もできず、ただ風景を眺めているだけになることが
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