國分功一郎『スピノザの方法』はデカルトの思想とスピノザの思想を対比した上で、ある驚くべきテーゼを発見している。デカルトの思想が他者への説得を試みるのに対し、スピノザの思想は他者への説得を試みない、というのだ。 本書の問いは、人はいかにして真の観念・真の認識に到達できるのかという「方法」の問題から始められている。まず、方法は精神にとって外的な「道具」と見なされた。しかし、そのような方法を探究するにはまた別の方法が必要であることから、懐疑論者(ソフィスト)によって無限遡行の問いを付されてしまう。そこで、デカルトは方法を精神にとって内的な道具と見なした上で、懐疑論者を説得する外的な「標識」を求めた。決して疑い得ないコギト、すなわち「我思う、ゆえに我あり」がそれである。さらにデカルトはコギトから、決して私を欺くことのない神の存在を証明しようとした。二つのア・ポステリオリな証明と一つのア・プリオリな