あえて秀吉を例に挙げない。 織田軍団の出世レースでは、 羽柴秀吉 明智光秀 滝川一益 丹羽長秀 堀秀政 あたりが、トップ集団と云われるが、 織田家中で最初に城持ち大名に抜擢された点、 佐久間信盛の後任として畿内を任された点 徳川家の筆頭家老・酒井忠次が饗応係を勤めた接待の答礼宴会の責任者に指名された点 の3点を以て、底辺は明智光秀を織田家中の出世頭と認識している。 本能寺直前には秀吉に信認度で抜かれたとされているが、そう感じた瞬間に主君の殺害に成功しているのでセーフ。 まあ、そんな事はどうでもいい。 誰が出世レースのトップであったかの論議は本旨ではない。 底辺の言いたかった事は、 明智光秀は流人の状態から、巧妙に織田家に入り込み信長の信任を勝ち取り、 露骨な美濃閥を形成した上に勝手に明智軍法を定め、 (私兵内私兵である) こうして後世に名を残している云う事実だ。 (しかも、朝倉家・足利家と
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