2014年11月29日のブックマーク (3件)

  • マイノリティを「代弁」すること - 擬似環境の向こう側

    このまとめ(『彼女たちの売春(ワリキリ)』(荻上チキ著)への違和感)を読んだ。 ぼくは『彼女たちの売春(ワリキリ)』は良いだと思ったが、やはりこういう感想を持つ人たちもいるんだな、というのが正直なところだ。そこで、ここでは以前からぼくが悩んでいることについて書いてみたい。なお、ここでの話は、売春に限らず一般的なマジョリティとマイノリティとの関係についてのものである。 マジョリティ/マイノリティの3タイプ 話を単純化するために、ここでは3つの立場に限定して書いてみる。ここで言うマジョリティ、マイノリティは権力関係に基いて決まる。なので、数の上では少数派でも権力を持っていればマジョリティだし、多数派でも抑圧されていればマイノリティである。 A:マジョリティに所属し、マイノリティの抑圧に加担している B:マジョリティに所属しているが、マイノリティの境遇に同情的 C:マイノリティの当事者 さて、

    マイノリティを「代弁」すること - 擬似環境の向こう側
    tukirou
    tukirou 2014/11/29
    これすごく良い考察だと思う。ただ、Cには経済的にも精神的にも余裕がなくて、どうしてもBを味方として取り込むような立居ぶるまいが出来ないという事情も。どうしても5に流れるよなあ。
  • 「ゲームセンターは不良のたまり場」だった頃 - いつか電池がきれるまで

    明治時代、読書といえば四書五経のようなマジメな漢籍を読むことであり、絵空事を書いた「小説」は読書のうちに入らないとされていた。で、「小説のような悪書を読むのは不健全である」と新聞で論じられたりもした。ひとえに小説が新しいメディアで当時の大人達が慣れてなかったのである— こなたま(CV:渡辺久美子) (@MyoyoShinnyo) 2014, 11月 26 1950年代に漫画が悪書扱いされ、日各地で焚書まがいの弾圧が行われていたのは有名だが、そのころ漫画を取り上げられて泣いていた子供たちが成長し老人になった今、誰も手塚治虫の漫画を悪書と呼ぶものはいない。— こなたま(CV:渡辺久美子) (@MyoyoShinnyo) 2014, 11月 26 このツイートを読んで、以前、ネットで書いたことへの、意外な反響に驚いたのを思いだしました。 僕が子どもの頃、いまから30年くらい前だから、1980年

    「ゲームセンターは不良のたまり場」だった頃 - いつか電池がきれるまで
    tukirou
    tukirou 2014/11/29
    野球ですら、ボールをキャッチした時の衝撃が腕を伝って脳を揺らし、知能低下を引き起こすから規制しろ、なんて騒がれてた時代があったわけで。
  • 愛されたくてしかたなかった - おうつしかえ

    なんでしょう。 友人と話していて、もやっと、ううん、もやっとではないのですが、何かちょっと小骨が引っかかるというか、ひりひりするというか、胸焼けするというか、違和感を感じることがあるんですね。 多分、「この人は幸せに愛されて育ってきた人なんだなー」ということを感じてのことなのだと、思います。 親しい友人と家族の話をしているときには、はっきり言われました。 「なんでそんなに親やきょうだいに気を遣うのかわからない」 「その他人行儀な感じって普通じゃないよね」 「愛情のベースとなるべきものを持っていない」 そんなことも言われたことあります。 そう言われると、確かにそう。 [広告] 一番近い家族にですらそんな状態ですから、誰にも心を許してなかった感じがします。 帰る場所なんかどこにもない感を持って生きてきたわけです。 いま母ときょうだいとは険悪ではありません。 まあまあ良好です。 ですが、ある年齢

    愛されたくてしかたなかった - おうつしかえ
    tukirou
    tukirou 2014/11/29
    xevra先生がたまに優しいこと言ってると草生えて呼吸困難になる。いいエントリだな、と思いました。