![大野左紀子 on Twitter: "外食の番号化を「人に優しい」という視点で捉える人が結構いて驚いた。自分のような旧世代からすると、ここで言われている「倫理観の変化」ももちろん、生に関することの効率化、機械化でグレーゾーンがなくなり資本の支配がより一層あからさまになってディストピア感が増しましたね‥‥感が強い。"](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/931b1369907508c143cbe56e69021038b676aa28/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fpbs.twimg.com%2Fprofile_images%2F875517359846440960%2FmkSChJct.jpg)
最近、赤松健候補をレドマツ呼ばわりするのがニガーと同種の深刻な差別問題だという主張が頻繁にされていて、酷暑の残酷さに心を痛め後遺症を心配するところなのだが、「ニガーを当事者が言うのはOKだが外部が言うのはダメ」という言説はちょっと違うので一言言わせてくれ。 この「罵倒文句を己らの呼称として使うようになる」っていうのはアメリカの伝統なんよ。 ヤンキーとヤンキードゥードゥルYankeeは元々北部のアメリカ人の事で、主に南部人(デキシー)が使う罵倒語だった。 ところがこれを北部の連中は気に入ってしまい、自分らの事をヤンキーと自称するようになった。NY州の大リーグチームはNYヤンキースだ。今ではアメリカ人=ヤンキーという使い方も一般的だ。 一方外国がヤンキーという場合は大抵が罵倒語だ。でも当のヤンキー達は気にせず使い続けた。 日本の『アルプス一万尺』はアメリカの愛国歌、ヤンキードゥードゥル Yan
ファッションに興味ないなら、服装の選択で情報処理能力が低いと判断されてしまうリスクを避けて、プラスマイナスゼロの評価になるような、いわゆる量産型ファッションをするもんじゃないの? オシャレしたいわけでもないのに、人と違う、世間の最大公約数的な価値観の中で評価されないファッションをしたところで得しないと思うんだけど。 俺は学生時代からベースボールシャツをよく着てて、友達からはパワプロくんっていうあだ名で呼ばれてたんだけど、周りの意見よりも自分のこだわり優先だから別に何とも思わないよ。 でも、ファッションに対してこだわりない人の方が世の中じゃ多数派でしょ? せっかく量産型ファッションっていう、ファッションが原因で人格を判断されないための手段があるのに、それをしない理由がわからないんだよな。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く