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2016年4月2日のブックマーク (2件)

  • 「日本死ね」と言うべきだっただろうか?: 極東ブログ

    すでに旧聞になると思う。というか、そうなるのを待っていた面もあるし、考えていたらそうなってしまったという面もある。話題は、れいの、と言ってもいいだろう、「保育園落ちた 日死ね!」ということだが、私が気になっていたのは、「日死ね」という表現だった。そう言うべきだったのだろうか? 言葉狩りがしたいわけではないが、これが仮に「中国死ね」や「韓国死ね」という表現であったら、ヘイトスピーチになるのではないか。なのになぜ、「日死ね」ならそういう問題にならないのだろうかと疑問に思ったのである。 おそらく日人なら「日死ね」と言ってよいという暗黙の前提があるのではないだろうか。だとすればそこで疑問が続く、日人なら「日死ね」と言ってよいのだろうか? あるいは、日人なら「日死ね」と言えるという特権のような意識があるとすれば、それは何に由来するのだろう? その特権を支える正義はなんなのだろう? 

    「日本死ね」と言うべきだっただろうか?: 極東ブログ
    uehaj
    uehaj 2016/04/02
    「死ね」表現とそれが示唆した状況が意図せず世論感情を揺さぶるのは偶発的で悲惨な事故で安全対策が問われるのと同じ。悲惨な事故は目的を正当化しないがしなくて良い。悲惨な事故は政治を動かしてはいけないのか
  • なぜアメリカは「世界の警察」を始めたか、なぜ「世界の警察」をやめようとするのか

    アメリカはどうやら、自分の命を懸けて「世界の警察」を続ける意欲を失っている。たぶん、やめるだろう。なぜやめるのかを理解するには、「そもそもなぜ世界の警察を始めたのか」を考えると容易だ。 追記:ニクソンショック時の「石油兌換紙幣」の策は、キッシンジャーが画策したのではないかと考えています。この「石油兌換紙幣」から以降についてはユダヤ資を主語としていないように、ユダヤ資以外のファクターが大きいでしょう。ドミノ理論を基礎にした共産主義封じこめまではユダヤ資の主導の可能性がありますが、それ以後はメインファクターとは言えないだろうと考えています。

    なぜアメリカは「世界の警察」を始めたか、なぜ「世界の警察」をやめようとするのか
    uehaj
    uehaj 2016/04/02
    集団的意志、多様な動機の総和的ベクトルを擬人的にこう解釈できる、こう見立てられる、という話を、「誰かが具体的にインボーした」と受けとる人が多い