朝鮮王朝の嫡統を受け継ぐことになった40代の会社員李源(イ・ウォン)氏は、「今後も、これまでと変わらず、会社員として働く」と語った。 全州李氏大同宗約院理事会は22日、高宗(コ・ジョン)皇帝のひ孫で、義親(ウィチン)王の9男、李忠吉(イ・チュンキル)氏の長男である李源氏を李玖(イ・ク)皇世孫の継承者に決定した。喪主として賓庁(宮中に設けられた会議室)を守っていた李氏は、喪中のため本格的な記者会見は開かず、賓庁で話した。 李氏は門中(一族)の法度や宗約院の規律により、請け負った責任を遂行していく」「王室の伝統法度の教育も受ける」と話した。米国に留学した李源氏は、一時、米国籍ではと囁かれたことがあったが、「永住権をもっていたのは事実だが、1989年に放棄した」と話した。 この日に開かれた理事会で、李源氏を故李玖皇世孫の養子に迎えることを決定した全州李氏大同宗約院は、「皇室を復元するという
李 源(イ・ウォン、り げん、朝鮮語: 이 원、1962年9月23日 - )は、朝鮮国と大韓帝国の君主家だった全州李氏の子孫。 最後の朝鮮国王(第26代)にして初代韓国皇帝である高宗の曾孫。全州李氏宗家の第30代当主であり、韓国の皇位継承者として「皇嗣孫(황사손)」を称する。 半生[編集] かつて義王であった李堈の第9子李鉀(朝鮮語版)の長男として生まれる[注釈 1]。出生時の名前は「相協(상협、サンヒョプ)」。 1981年、ソウルの尚文高等学校を卒業したのち父親と共に渡米、ニューヨーク工科大学において新聞放送学を修めた。アメリカのケーブルテレビ局でプロデューサーとして働き、韓国に帰国後は現代放送などにプロデューサーとして勤めた。2001年に現代ホームショッピングに入社、児童スポーツ部長に就任する。 2005年7月、宗家当主である李玖が子女なく死去すると、全州李氏大同宗約院の決定によって第
李玖(イ・ク)が亡くなった。享年七十三。哀悼の意を表したい。 亡くなったのは十六日で、死因は急性心不全とされたようだ。看取った者はなかった。場所は赤坂プリンスホテルだった。日本の国法上は変死にあたるので、昨日日本の警察が手続き上司法解剖した。 李玖は日本で暮らし、従姉妹の梨本さんの世話を受けていた。彼女が十八日に李玖を訪問し、その遺体を発見したとのことだ。 李玖は、李氏朝鮮最後の皇太子、英親(ヨンチン)王(1897-1970)李垠(イ・ウン と日本の皇族、李方子(りまさこ/イ・パンジャ)(1901-1989)の次男である。 明治四十三(1910)年、通称日韓併合後、李垠は朝鮮の王世子(皇太子)となった。李王家は王公族として日本の皇族に準じる待遇を受けた。敬称は殿下であり、実際は皇族と見なされたし、それを日本人に知らしめる必要もあった。 母李方子は、明治三十四(1901)年、梨本宮守正王と伊
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く