はてなSNSキモチワルイ web はてな SNS つくったのだそうですけれど、なんだかキモチワルイのです。気持ち悪いをキモチワルイと書いてしまうくらいの気持ち悪さです。 一番の気持ち悪さはFC2で作った、という点。 勝手連的にはてなのシステム外でやるのってどうなのよ、というのがあります。 mixiにもはてなのコミュがありますけれど*1、グループ機能とかを使えば出来る事をわざわざ外部でやる意味が良くわからない。です。 次の気持ち悪さは『その他細かいことは中でインフォメーションしてます』の部分。細かいことが気になります。どんなことが細かいことで、何が書かれているのか加入しないとわからない、というのは「見えそうで見えない」感満載で気持ち悪いです。 次の気持ち悪さは、例え虚偽であっても何らかの情報を開示しなければならないという点。 名前はともかくとして、細かいプロフィールって嘘が書きにくい。 「わ
すいません。下記問題の答え、あげるのすっかり忘れてました。 問題5 刑法が改正され、これまで業務上過失致死としてしか処罰できなかった飲酒や信号無視といった悪質な運転による死亡事件について、危険運転致死罪を導入して以降、交通事故による死亡者数が10%減少した。これは重罰化による犯罪の抑止効果の証明である。 答え 『政府や法律家によって刑事罰の一般予防(犯罪者ではない人に向けての犯罪やっても意味がないと思わせる法の威嚇効果と思ってください)の根拠としてよく使われるロジックです。上の例は一見すると、重罰化と交通事故の死亡者に関連がありそうである。まず考えなくてはいけないことは交通事故死の統計の取り方に変化がないかどうか。つまり深刻な交通事故の発生の操作的定義として交通事故死亡者統計の信頼性、妥当性の検証が必要。ひとつの方法としては警察統計の交通事故の死亡者数と、人口動態統計の交通事故を死因とする
生態系ピラミッドのシミュレーションです。 ドラッグして一部分のバランスを崩してみてください。 それぞれのブロックは、上(天敵)が多くなると減ってしまい、下(餌)が多くなると増えるという 波と片方が逆の法則で動きます。(あとは同種のぶつかり合い等の微妙な調節も入っています。) 全体で見るとゆっくりバランスを取ろうと動いています。 実際には植物の下にはバクテリアがいるとか、植物のすぐ上に草食動物が来るべきだとか 色々違う部分がありますが一応どのように動くかという模型だということで。 余談ですが、このピラミッドの比率は正しくはなく、 現実には、とーーっても大きい植物のブロックの上に草食動物のブロックがちょんっと乗り、 その草食動物をずーっと拡大すると肉食動物がちょこんっと乗っているという おおよそピラミッドとは呼べないバランスをしているらしい。 上が壊れても下が残ることはありますが、下が壊れると
「愛想笑いしかしない」ではなく「愛想笑いしか出来ない」 愛想笑いしか出来ない人や、お互いに傷つかないような情報量皆無のやりとりに終始する人というのは、他者に影響を与える事が難しい。彼らは確かに悪影響をもたらさないかもしれないが、魅力的な何かをプレゼントすることもない(参考:シロクマの屑籠)。「ただ無害であること」を示して排除されないよう終始するだけの彼らを、弱者として交際リストから除外するのは実にたやすい。弱っちょろくて空気そのものみたいなどうでもいい存在で、わざわざ骨を折って時間をかけて話し合いたいという魅力を探すのが困難な対象。確かに、そんな奴と長時間毛づくろいをしたって、何の刺激もありやしないし、経験値効率(?)もよろしくない。空気人間じゃない人間と交際できるんだったら、そっちに移ったほうがよっぽど色々経験できる。 しかし、親密になりたいと思う魅力が皆無な彼らなんだけど、彼らにはそれ
■ライオンとシマウマの話に興味を持った 分裂勘違い君劇場‐「おまえも空気の奴隷になれ」って?「空気読め」の扱い方次第で人生台無し ブロシキ‐論理とかコミュニケーションとか 以上の二つの記事で取り上げられている「ライオンとシマウマ」のたとえ話に興味を持った。なぜ興味を持ったかというと、ホモ・サピエンスの後天的な個体差の問題である「空気を読む」というどうでもいい問題から、ライオンとシマウマの自然界における関係というより高度な、より本質的な概念へとアウフヘーベンされているからである。この点については、たとえ話を持ち出した分裂勘違い君劇場のfromdusktildawn氏と、数ある論点の中でライオンとシマウマの話を選んで話題を広げたsantaro_y氏の見識の高さを賞賛しなければならない。 そこで私も、ライオンとシマウマと大自然の理について(特にシマウマの進化について)、おおいに語りたいと思う。
個性などと言うフレームワークはそろそろ潰してしまう 問題は、そうした「面白みの無い存在」としての、つまり理念として演じられる自己や自我というのに則って物を考えたり書いたりするのは、ひどく簡単だということだ。ある書式を覚えこみ、それに適合する話題とロジックが一通りそろってしまえば、その後にやってくるのはわずかな文節の差異しか持たない、本質的には何一つとして違っていない、堂々巡りの同じ思考。しかし、読んでいる者はとにかくも、書いているものには、そこに費やした無駄な熱量の分だけ、何かが進歩したような気分だけはもたらされる。具合の悪いことに、手管が簡略化され、より効率的になればなるほど、脳味噌は死んでいくにも関わらず、「何かいいものが書けた」という変な満足感が生まれてしまう。多分、「筆が乗る」というのは、そういう状況を指している。乗っているときの筆は、僕ら自身の腕が動かしている筆ではない。 htt
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