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ブックマーク / jun-jun1965.hatenablog.com (2)

  • 「篤姫」の不自然(訂正版) - jun-jun1965の日記

    http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20080915/1221477793 ここにあるのが最初に書いた文である。なるほどそうか。そういえばそんな記憶もある。 しかし随分不自然な設定であることに変りはない。 最初のほうで篤姫が、薩摩から来た中に「小松尚五郎という者がいるか、調べられるか」と問う。続いて久光に会うのだがその際小松帯刀もついてくる。その後、将軍に頼んでもう一度帯刀と会う機会を作ってもらい、そこで篤姫は、尚五郎が小松家のちかと結婚して小松帯刀となったことを初めて知る。だが、小松家へ養子に入ったと聞いて、ちかと姉弟になると思うのも不自然で、ちかは病弱ということになっていたが別に病臥しているわけではなし、その家の娘を差し置いて別の女と結婚したりできるものだろうか。小松家へ養子に入ったと聞いて、ちかをにしたと思うのが自然である。 しかも、久光に一人だ

    「篤姫」の不自然(訂正版) - jun-jun1965の日記
    urat
    urat 2008/09/15
  • 教育的指導 - jun-jun1965の日記

    http://d.hatena.ne.jp/kasegi/20080417 どうもこういうわけの分からん奴らがいるので、分かりきったことだがあえて教育的指導をしておく。 どうやら世間には「小説家」と「文藝評論家」を対立関係に置いて考えたがる人がいるようだが、 「小説を批評したり悪口を書いたりするのは文藝評論家である」 という命題は偽である。正宗白鳥だって川端康成だって大岡昇平だって高見順だって文藝批評はした。ただ吉岡栄一の『文芸時評』(彩流社)が言うように、1980年頃から、作家による批評はもっぱら褒め批評になっていき、今では仲間意識からか、あまり批判的なことは言わなくなった。文藝評論家対作家という構図を広めたのは筒井康隆で、『虚航船団』を栗慎一郎に「つまらない」と批判されたあたりから(別に栗は文藝評論家ではないのだが)、主として渡部直己と糸圭秀実を論敵としてそういう構図を浸透させたの

    教育的指導 - jun-jun1965の日記
    urat
    urat 2008/04/25
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