2008年5月19日のブックマーク (10件)

  • 服部卓四郎 - Wikipedia

    服部 卓四郎(はっとり たくしろう、1901年(明治34年)1月2日 - 1960年(昭和35年)4月30日)は、日の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 山形県出身。陸士34期、陸大42期(優等)。 経歴[編集] 陸軍士官学校34期を秩父宮雍仁親王を除き、12番の成績で卒業。同期に西浦進、石井秋穂、堀場一雄、赤松貞雄、西田税、三好達治などがいる。 服部は、同期の西浦・堀場とともに「三十四期の三羽烏」と称されるほどの俊秀であった。 陸軍大学校42期を卒業。卒業後、しばらくは参謀部に勤務したが、1934年(昭和9年)~1935年(昭和10年)フランス留学、1936年(昭和11年)にはエチオピア戦争を観戦するなど海外畑を歩いた。 帰国後の1939年(昭和14年)5月に発生したノモンハン事件では、関東軍作戦主任参謀として作戦の積極拡大を作戦参謀の辻政信とともに主張したが、ソ連軍の大規模攻勢によって

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    urbansea 2008/05/19
    CIA文書によると、服部らは、自由党の吉田茂首相が公職から追放された者や国粋主義者らに敵対的な姿勢を取っているとして、 同首相を暗殺し、民主党の鳩山一郎を首相に据える計画を立てた。
  • 辻政信 - Wikipedia

    辻 政信(つじ まさのぶ、1902年(明治35年)10月11日 - 1961年(昭和36年)以降消息不明)は、日の陸軍軍人、政治家。陸士36期首席・陸大43期恩賜。軍人としての最終階級は陸軍大佐。 ノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導した。 軍事作戦指導では「作戦の神様」「軍の神様」と当時においては讃えられていた[4]。 その一方で、非人道的残虐事件を巻き起こした指揮系統を無視した現場での独善的な指導[5]、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の戦犯追及からの逃亡などについて批判がある[6][7]。 敗戦後は数年間を国内外で潜伏したのち戦記を上梓し、ベストセラーとなった。反共、反米、自衛独立を唱える政治団体の自衛同盟を結成後に、政治家に転身し衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)を歴任した。参議院議員在任中の1961年

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    urbansea 2008/05/19
    ノモンハンで18000人の兵が死亡し、ガダルカナルで2万人の日本兵が死亡し、インパールで3万人の日本兵が死亡しても、辻は常に楽観的で陽気であり、彼の周りは常に笑いの絶えない明るい雰囲気であった。
  • 牟田口廉也 - Wikipedia

    牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年(明治21年)10月7日 - 1966年(昭和41年)8月2日)は、日の陸軍軍人。陸士22期・陸大29期。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。 生涯 軍人官僚として 参謀部に勤務する佐官時代の牟田口廉也 佐賀市(現)で三人兄弟の次男として出生[1]。生家の福地家は鍋島藩の士族として古い家柄で、実父の福地信敬も官吏として公務に就いており、下関条約で日領となった台湾で裁判所書記官を務め、のちに判事に任用された[2]。しかし、家庭環境には恵まれておらず、廉也は後年になって、実父のことをほとんど語ることはなく「兄と私は孤児同様にして育った」と振り返っている[3]。 廉也の実母の生家は、福地家の遠縁にあたる同じ佐賀藩士族の牟田口家であったが[1]、後継ぎがなかったことから、早く

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    urbansea 2008/05/19
    インパール作戦失敗後、自ら建立した遥拝所に幹部将校を集めて懇々と一時間以上に渡って訓示を行ったが、幹部将校達は栄養失調で立っていることができず、バタバタと倒れた。
  • コントローラ地獄 愛すべきファミコンコントローラーたち

    詳しく見たいファミコンコントローラの写真かタイトルをクリックしてね。 下のボタンは「Home」がたった一人のファミコン少年のトップページへ行く。 「地獄入口へ戻る」はこのページに戻る。(戻る場合はブラウザの戻るボタンで戻ったほうがきっと良いです) 「総合ランキング」がファミコンのコントローラの総合ランキング(これは最後に行くのが好ましい) 「次へ行く」で次のページへ行けるよ!(これは超便利だからドンドン使ってちょ!)

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    urbansea 2008/05/19
    ジョイボール なんかエロイ
  • ベンチャー経営の「失敗談」データベース、経産省が公開 リアルな声、足で稼ぐ (1/2) - ITmedia News

    ベンチャー企業の失敗談を集めた経済産業省の「ベンチャー企業の経営危機データベース~83社に学ぶつまずきの教訓~」に、注目が集まっている。 経産省の担当者などが足で集めた失敗談は、リアルで具体的だ。「業歴が浅く、知名度がないため資金も人も集まらない」「エンジニア体質から技術重視の開発に走り、顧客の要望をくみ取ることが出来ずクレームが発生」「一時的な特需を自社の能力と見誤り、経営に行き詰まる」「幹部に株を分け与えたら、社長退任を迫られた」――など、危機を知る経営者たちの“肉声”が詰まっている。 収録されている「失敗情報」は計83件。大企業の大きな失敗例ではなく、「設立10年未満かつ従業員100名以下の企業」、かつ「新規事業に取り組んでいる」または「創業期に大きな失敗を克服した経験がある」などの企業に限定しており、身近な企業近な失敗例が無料で読めるというわけだ。 倒産企業から現役バリバリの企業ま

    ベンチャー経営の「失敗談」データベース、経産省が公開 リアルな声、足で稼ぐ (1/2) - ITmedia News
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    urbansea 2008/05/19
    失敗学のベンチャー経営版  「幹部に株を分け与えたら、社長退任を迫られた」はちょっと笑う
  • 鳴海清 - Wikipedia

    鳴海 清(なるみ きよし、1952年 - 1978年)は、日のヤクザ。暴力団・二代目松田組系大日正義団組員。山口組三代目の田岡一雄を銃撃したことで知られる。 来歴[編集] 大阪府出身。実家は大衆堂で、兄弟は多く、姉が何人かいたという。 中学校を卒業後、東大阪市内の印刷工場に勤務するが2年で退職。17歳の時に西成区内の喫茶店で、客と口論の末に喧嘩となり、相手が死亡。補導されて、浪速少年院で1年半を過ごす。少年院を出所後の19歳ごろに大日正義団組員になったと思われる[1]。 大阪戦争・ベラミ事件[編集] 1975年から続いていた「大阪戦争」と呼ばれる三代目山口組佐々木組と二代目松田組の抗争で、鳴海の所属していた松田組 村田組 大日正義団の組長・吉田芳弘が1976年10月、大阪橋の路上で佐々木組組員に射殺された(日事件)。これへの報復として、鳴海は山口組組長・田岡の狙撃を計画。

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    urbansea 2008/05/19
    松田組による暴行の様子を撮影したVTRが田岡一雄のもとに送られてきたという
  • http://www.doblog.com/weblog/myblog/17202/2621752

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    urbansea 2008/05/19
    一次産品生産国から先進工業国に所得移転が20年間→2000年以降は、その所得移転の振り子が逆向きに動き始めた
  • 『水戸芸術館』

    納豆は、できればご飯にかけずに ほろにがを楽しむ派。 (あんまべないけど。) ということで水戸芸術館に行ってきました。 東京駅八重洲口から1時間おきに 「みと号」というバスが出ています。 2時間くらい、久々の常磐道に揺られます。 電車よりバスが安かったよ。 終点の水戸駅の少し手前、 「泉町一丁目」の停留所で降ります。 なにやら、100年通りとかいう京成デパートのある通り。 ここがメインストリートっぽい。 そこから一路地に入ったところに、 市立水戸美術館はあります。 中でも水戸タワーは有名ですね。 うろこ雲めがけてカクカクしております。 折り紙みたい。 雨水の跡がシマウマみたいで面白い。 こぢんまりした美術館です。 青い芝生を建物がとりかこむ感じ。 石が浮いてます。 美術館は2階なので上にあがります。 ・・と思ったら、なんと目当てにしていた展示会 宮島達男「Art in You」は先週で

    『水戸芸術館』
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    urbansea 2008/05/19
    バスで八重洲から2時間で水戸へ
  • 岩井章 - Wikipedia

    岩井 章(いわい あきら、1922年4月25日 - 1997年2月18日)は、日の労働運動家、元日労働組合総評議会(総評)事務局長。 経歴[編集] 長野県松市出身。高等小学校卒業後、1937年に日国有鉄道(国鉄)に入り、機関士として勤務した。1945年に日が第二次世界大戦で敗北した後、国鉄内での労働運動高揚を受けて1946年に結成された国鉄労働組合(国労)へ加入、甲府支部青年部長を振り出しに内部で頭角を現した。1950年には中央執行委員に就任した。 1955年、総評内の路線闘争で合化労連の太田薫と連携し、事務局長に就任した。太田が同時に総評副議長となり、1958年に総評議長に就任すると、岩井は太田との連携で「太田-岩井ライン」を形成し、総評の実権を握った。2人は総評が中心となって産業別に団結して経営側に大幅な賃上げなどの要求を求める「春闘方式」を定着させ、その成果によって労働界内

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    urbansea 2008/05/19
    国労出身 国鉄民営化によって国労出身の岩井をようやっと払拭 (かわりにJR総連が…)
  • 太田薫 - Wikipedia

    太田 薫(おおた かおる、1912年〈明治45年〉1月1日 - 1998年〈平成10年〉9月14日)は、昭和期の労働運動家。元日労働組合総評議会議長、元宇部窒素(現・宇部興産)企画課長。春闘方式を定着させた人物。 生涯[編集] 企業エリートから労働エリートへの転進[編集] 『アサヒグラフ』1954年7月21日号より 岡山県林田村(現・津山市)生まれ。旧制津山中学、旧制第六高校を経て大阪帝国大学工学部応用化学科卒業。1935年に大日特許肥料(現・三菱レイヨン)に入社するも入社4年目に重役と喧嘩をし、宇部窒素(現・宇部興産)に移る。宇部窒素入社後は窒素工場硫酸課長を経て、同工場企画課長と順調に昇進を果たすが、経営陣より八幡製鐵所の親和会をモデルに従業員組合を組成するよう命じられ、1946年に同社の初代労働組合長に推されると、それまでのポストを捨て、企業エリートから労働エリートへと転身を果た

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    urbansea 2008/05/19
    宇部興産出身 1965年にソビエト連邦からレーニン平和賞を受賞