2009年7月31日のブックマーク (4件)

  • ホイコーロー定食 えぞ松 東京都千代田区富士見2丁目7-18 - Pochi の 大阪・名古屋・東京 ときどき 岐阜 蔵出し多し

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    urbansea 2009/07/31
    急に喰いたくなり出向くと巨大ビルに消されていた。店舗自体は近所に移転。とはいえ、昔の内観の写真が懐かしい。
  • 藤王康晴 - Wikipedia

    1965年4月13日に愛知県一宮市で生まれる。一宮市立大和中学校卒業後は享栄高等学校へ進学し、1学年の秋季から4番・一塁手として活躍する。1982年の全国高等学校野球選手権愛知大会に出場して決勝戦まで進出するが、野中徹博を擁する中京高等学校に抑えられて敗れた。1983年の第55回選抜高等学校野球大会に出場すると、同僚の平田幸夫(のちに中央大学を経て河合楽器)の好投もあって準々決勝へ進出するが、東海大学付属第一高等学校に延長10回サヨナラ負けを喫し[1]、優勝は果たせなかった。藤王は大会記録となる11打席連続出塁を記録したほか、3試合で打率.900、出塁率.923と驚異的な記録を残した。同年夏は愛知大会決勝でまたも野中を擁する中京高等学校に敗れ、甲子園の連続出場は叶わなかった。高校通算で49塁打を放っている。 1983年のドラフト会議において、地元の中日ドラゴンズから1巡目で指名され、入団

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    urbansea 2009/07/31
    引退後佐川急便。営業成績は非常に優秀で、社員内では伝説化していたほど 佐川を退社後、実家の繊維業を継ぐ。03年にコンビニ店員に対して暴行した容疑で逮捕(不起訴)、06年にはなぜか演歌歌手としてCDデビュー
  • 野中徹博 - Wikipedia

    野中 徹博(のなか てつひろ、1965年5月22日 - )は、愛知県一宮市出身[1]の元プロ野球選手(投手・内野手)、高校野球監督。1989年のみ登録名は野中 崇博。台湾プロ野球での登録名は野中 尊制。 一度はプロ野球選手を引退し、野球から数年離れていたものの、台湾球界で現役復帰を果たしたのちに日プロ野球界に復帰。最初のプロ入りから数えて13年目でNPB初勝利をあげた異質の経歴をもつ選手である[2]。 小学校2年生のときに野球(軟式野球)を始め、5年生から投手を務める[1]。この頃から中日ドラゴンズファンになり、鈴木孝政に憧れていたという。岐阜県美濃加茂市で過ごした中学時代には3年次の全国大会で準優勝を果たし、注目を集めた。中京高では2年次の1982年からエース(控え投手は同級生の紀藤真琴、森昌彦)となり、甲子園には春夏合わせて3回出場(2年次の春夏と3年次の夏)。真っ向から投げ下ろす速

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    urbansea 2009/07/31
    後に広島の紀藤が控え投手
  • 三浦将明 - Wikipedia

    三浦 将明(みうら まさあき、1965年9月17日 - )は、神奈川県川崎市幸区出身の元プロ野球選手(投手)。 甲子園ではエースとして春夏ともに準優勝に導いた 川崎市立御幸中学校在学時は、同校軟式野球部に所属し投手として活躍した。 高校は県内および東京の私学校から熱心な誘いを受けるも、地元神奈川の強豪である公立の伝統校、Y校こと横浜商業高に入学。 1981年秋の新チームから、1年生ながら長身から投げ下ろす速球と縦に割れる大きなカーブを武器に主戦投手としてチームを牽引。旧くからのライバル校である横浜高を筆頭に桐蔭学園高や東海大相模高、法政二高や日大高など数多の強豪私学がひしめく秋季神奈川県大会を制する。引き続き行われた第34回秋季関東地区高校野球大会決勝で、2年生日野伸一投手(のち東洋大)擁する上尾高に延長12回0-1でサヨナラ負けを喫するも準優勝を果たした。翌春行われる選抜甲子園大会への同

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    urbansea 2009/07/31
    高校野球の見始めは、野中と三浦だった。 藤王・山本昌と同期入団 清原和博に、甲子園初ホームランを打たれた投手