赤塚不二夫の『天才バカボン』に、バカボンのパパが自分をいじめた友人を藁人形で殺そうとする話がある。しかしパパは絵が下手だったため、藁人形と同じ顔をした別の人物の心臓が貫かれてしまう(「催眠術の呪いなのだ」)[図1]。(赤塚の)マンガのなかでは、人物の表象とそれを写した表象の表象は絵柄として区別されないために論理が踏み抜かれているわけだが、そこで示されているのは、イメージの「宛先」とはなにかという基本的な問題でもある。 ウィトゲンシュタインは『哲学探究』第一部の最後で、同じ問題にとりつかれている。 わたくしがある頭部を素描する。あなたが「これは誰を表象しているのか」と尋ねる。──わたくし「Nのつもりだ。」──あなた「でも、それはかれに似ているようには見えない、むしろまだMに似ているように見える。」──わたくしが、それはNを表象している、と言ったとき、──わたくしは、ある繋がりを作り出したのか