平成25年11月度 広布唱題会の砌 於 総本山客殿 (大日蓮 平成25年12月号 第814号 転載) 皆さん、おはようございます。 本日は、十一月度の広布唱題会に当たり、多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。 本年もいよいよ十一月に入りましたが、既に御案内の通り、今月十九日にはいよいよ待望の御影堂の大改修落慶大法要が奉修されます。 またそのあと、御大会を挟んで、引き続いて記念法要が十二月中旬まで行われることになっておりますが、この大慶事を迎えるに当たり、皆様方の支部では、既に本年度の折伏誓願を達成されたでしょうか。 今日お集まりの支部は、既に誓願を達成されたものと存じますが、もし、まだ誓願を達成されていない支部があったら、なんとしてでも御影堂大改修落慶大法要までには、僧俗一致・異体同心して誓願を達成され、晴れて御影堂大改修落慶大法要を迎えられますようお祈りいたします。 さて、今月は
Jun17 出来損ない、犀角独歩の邪義を破す。 カテゴリ:破折 犀角独歩の"戒壇の大御本尊はニセモノ"という邪難を破折します 日蓮正宗から退転した状況を自己正当化するために、戒壇の大御本尊を否定する邪義をまき散らしています。 そして、昨今、日蓮正宗と何等の縁をして、結局「信不具足」になってしまった人の中には、とうとう犀角独歩の"戒壇の大御本尊はニセモノ"という邪難を信じてしまう人もいるのが現状です。 創価学会に失望した学会員が、真実の大聖人の仏法を求めて、さまようことはわかりますが、戒壇の大御本尊を否定すれば、一縷の望みである戒壇の大御本尊への信を破られ、行く宛てを失い、多くの日蓮系の魑魅魍魎の蠢く邪教へ吸い込まれてしまいます。 戒壇の大御本尊を否定する人は、そもそも大聖人御一期の教導の次第が全く分って無いといえます。 大聖人の御化導が究竟するところは、一幅の十界文字曼荼羅となるのです。
Apr29 別在の十界 幽界の命 (破邪の欄室より転載) カテゴリ:日蓮正宗 御隠尊猊下に曰く『「悪鬼」というのは幽界の命とも言えます。目に見えるものしか信じない人も多いけれども、世の中の存在には、目に見えない種々の界があるのです。 すなわち別在の十界を信ずべきであり、そこには地獄界も餓鬼界もあり、悪霊も存するのです。例えば、通力のある人は、山の中の稲荷の後などを歩くと、そこに長い間住んでいた狐の魂などを感ずることがあるのです』 (平成15年度 第1回法華講夏期講習会) 先ずは『別在の十界』との表現は、宇宙法界に冥伏せし十界の生命をして、まことに要を得た表現であると思うものである。抑も、それら別在する生命、つまり「空」の状態で冥伏している十界の生命については、恩師戸田先生も述べられている所であり、小生も男子部時代、何度も読み返したものである。長文ではあるが此に明示しよう。 恩師に云く『【死
人間は生まれれば誰しも受ける苦しみが「四苦八苦」です。恵まれた環境や逆境を体験しない人には理解できませんが、実際に経験をするとその苦しみは身に染みてわかります。四苦八苦は、御本尊様に御題目を唱えることで苦しみを和らげることが出来、四苦八苦をバネにして人生を勇敢に生きることが出来ます。日蓮大聖人の教えにおいては、四苦八苦が成仏の大切な糧になります。 四苦八苦とは、生老病死の四苦と愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五盛陰苦(ごじょうおんく)です。 生老病死の四苦である生苦が生きる苦しみです。生まれて生きていくというところに、苦しみを受ける原因が具わっています。苦しみの原因を自由自在に操っていく修行が日蓮正宗の信心です。 老苦が老いる苦しみです。人は必ず年をとり、体も老化していきます。老いる苦しみは避けられません。体は老化しても心は老化することはありませ
「因果応報」とは、過去における善悪の業に応じて、現在における幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて未来の果報を生ずることです。 第六十七世日顕上人は「開目抄の御説法」で、 「善因善果、悪因悪果といって、善いことを行えば善い結果が現れ、悪行は悪果を呼ぶということでありまして、この因果応報の法則を信ずるのが仏弟子でもあり、また、人間の人間らしい姿でもあるわけです。」 と御指南であります。私達、日蓮大聖人の弟子は、当然「因果応報」の法則を信じることです。信心をすれば必ず成仏できるということも、「因果応報」に繋がっていきます。原因と結果に応じた報いが、全てにおいてあるのです。 インドの釈尊はある日、十大弟子の一人、神通第一の目連に、亡き母の果報についてこういいました。「目連よ、常々よいことをしていれば良い結果が報いられ、悪い種子をまけば悪い実がみのるのです。お前の母は、自分の欲ばかりに目がくらみ、恵
日蓮大聖人は「変毒為薬」について『太田殿女房御返事』に、 「竜樹菩薩の大論(だいろん)と申す論に『譬へば大薬師の能(よ)く毒を以て薬と為(な)すが如し』と申す釈こそ、此の一字を心へさせ給ひたりけるかと見へて候へ。毒と申すは苦集(くじゅう)の二諦、生死の因果は毒の中の毒にて候ぞかし。此の毒を生死即涅槃・煩悩即菩提となし候を、妙の極とは申しけるなり。良薬(ろうやく)と申すは毒の変じて薬となりけるを良薬とは申し候ひけり」(御書1472) と仰せであります。 私達においての身近な毒とは、心の中に生じる貪瞋癡の三毒です。薬品などの毒薬は、多くのものがあり、手にすることが先ずありません。この貪瞋癡という三毒が、信心することで成仏に欠かせない秘薬になります。 三つの毒は、仏様が仰せになる使用方法を無視し、間違えると生命に危険をさらすことになります。貪である貪欲により、使用方法を間違えれば、弊害が生まれ、
『御義口伝』に、 「毒気深入(どっけじんにゅう)とは権教謗法の執情(しゅうじょう)深く入りたる者なり。之に依って法華の大良薬を信受せざるなり。服せしむと雖も吐(は)き出だすは、而謂不美(にいふみ)とてむま(美味)からずと云ふ者なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は而謂不美の者に非ざるなり」(御書1768) と仰せであります。「毒気深入 失本心故」とは、毒気という謗法の命が心の深くには入り込み、信心に目覚める気持ちを失った状態を言います。 折伏では、毒気を取り除く作業が必要です。信心の話をして、一見納得したような態度を見せても、心に染み付いた過去からの謗法の思想に染められ、信心に大切な発心が育たない場合があります。また周りに縁する人によって発心が育たない場合があります。折伏における一つの壁です。 この壁よって私達の信心を、御本尊様から強盛にさせて頂くことが出来ます。壁にぶつかったとき
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