外桜田門と彦根藩邸の距離は600m 安政5年(1858年)4月、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼は、将軍継嗣問題と日米修好通商条約の締結という二つの課題に直面していた。 まず、病弱で世子が見込めない第13代将軍・徳川家定の後継をめぐって、南紀派(会津藩主・松平容保や高松藩主・松平頼胤ら、溜間詰の大名を中心とした一派)と一橋派(前水戸藩主・徳川斉昭や福井藩主・松平慶永ら、大広間や大廊下の大名を中心とした一派)が争った将軍継嗣問題があった。数年前の嘉永6年(1853年)に起きていた黒船来航など対外危機[注釈 2]を慮った一橋派は、英明で知られた当時21歳の一橋慶喜を推挙していたが[注釈 3]、それに対し南紀派は、家定の従弟で当時12歳の紀州藩主・徳川慶福を推し、結局、慶福が養子と決められた。これは血縁を重視する慣例と現将軍・家定の内意[注釈 4]に沿い、直弼を大老に推した南紀派を満足させたが、