空位となった将軍職 応仁元(1467)年から11年間にわたって続いた「応仁の乱」によって、中世の京都は完膚なきまでに焼き尽くされ、焦土と化しました。 応仁の乱は、足利将軍家や有力大名たちの家督争いからはじまり、やがて全国規模の軍事的な衝突へと拡大していったのです。 ですが、乱のはじまる25年前、魔王将軍・足利義教(よしのり)が暗殺されたことによって将軍家の権威が没落し、有力大名たちを統治できなくなったとき、その前兆はすでに秘められていたのかも知れません。 恐怖統治による強力な政治権力を確立していた義教に対して諸大名たちはその顔色をうかがうことしか出来ませんでした。 ですが、義教が守護大名の赤松満祐に暗殺されると、一転、有力大名たちは争って好き勝手な行動をし始めるのです。 暗殺という悲劇にみまわれたことによって突然にこの世を去ってしまった将軍・義教。でも、その子供たちはまだ幼すぎました。 上