不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 やっぱり言葉が多すぎるのかもしれない。 いや、言葉だけが流通してしまう状態が多すぎるのかも。 その言葉ばかりを追いかけて、言葉漬けになってしまっている人は少なくないだろう。それは僕自身も含めて。 特に説明的な言葉ばかりに頼る身体になってしまっているのはよくない。 理屈や一般論だけで実態がないのに納得してしまったり、逆に実態がそこにあるのに説明がないと受け付けられなかったり。 論理性、合理的な説明がないとわからない、不安になるという状態はやはり疑問に思う。すべてを論理や合理によって説明可能であると疑わずに、なんにつけ、説明を求めてしまう姿勢はあらためていかなくてはいけないのではないか。 すべてを説明することの不可能性と不満もちろん「詩のことば、合理の言語」でも書いているとおり