文学に関するwi-wi-wiのブックマーク (5)

  • 「コレラの時代の愛」 - きみはじつにばかだな。

    コレラの時代の愛 作者: ガブリエル・ガルシア=マルケス,木村榮一出版社/メーカー: 新潮社発売日: 2006/10/28メディア: 単行購入: 3人 クリック: 46回この商品を含むブログ (107件) を見る 「純愛」という言葉がチンプかつチープになって久しいが、それでもこの小説を表すにはこの言葉を使うしかないだろう。 永い話だ。長いんじゃなく、永い。出会い、文通、婚約、破綻、別れ、結婚不倫といった、なんてことのない断片的なエピソードが延々と500ページも続く。きわめて退屈だ。退屈だけれども、面白い。それはやはり、読者の五感に訴えるような緻密・細密で繊細な描写のおかげだろう。 例えば書き出し。「ビター・アーモンドを思わせる匂いがすると、ああ、この恋も報われなかったのだなとつい思ってしまうが、こればかりはどうしようもなかった。」という一文で物語は始まるのだが、ここだけみても非常に濃厚

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  • 村上春樹と中国と「モンゴル」 - 梶ピエールのブログ

    以下はちょっと前に書きかけてしまいこんでいたものですが、稲葉さんがここで書かれていることとちょっと関係しそうなので、ここでお蔵出し。 Acefaceさんからご示唆いただいた以下のテクスト、非常に示唆的だったので、いくつかの箇所を引用したい。 http://www007.upp.so-net.ne.jp/mongolbungaku/muraka.html 『ねじまき鳥クロニクル』の中のモンゴル人、すなはち、蒙古兵は、『羊をめぐる冒険』の中の印のある羊のような抽象的で、理解不能な存在である。勿論、彼らはその物語の主人公ではない。物語の主要なトポスがノモンハンであっても、その場所の主人公は彼らではないのだ。そして、蒙古兵のイメージは、第3部の狂暴なモンゴル人の渾名が「タルタル」(勿論、ラテン語の地獄を連想させる)であることが示すような人種主義的な時代のオクシデンタルなモンゴル人観に依拠している。

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  • Hang Reviewers High / ユリイカ 第40巻第5号

    「ユリイカ」にて宇多田ヒカルの歌詞について書いた文章のことを、ここに書こうと思っている間に次の号が出てしまった。そうこうしているあいだに、もうすぐさらにその次の号が出るという。 今売っている号では、僕が「空の境界」について作者の奈須きのこさんに去年の夏行ったインタビューを掲載していただいている。これは僕が初めて奈須さんにお会いしてお話を伺ったときのもので、今になって読んでみるとずいぶん読者としての自分の思いが先走った部分がたくさんあって恥ずかしい。だからインタビューなのにやけに僕が話している部分が多い。何とも恥ずかしいが、時間が経っていることもあって修復のしようがないのでそのまま当時の理解を伝えるものとして掲載していただいた。 しかし見方を変えれば、このインタビューは、僕が現在、全七回上映される映画のパンフレットの中で七回に渡って奈須さんにインタビューを行えることになったきっかけになったも

  • ヘルマン・ヘッセはフランツ・カフカの作品をどのように批評していたのでしょうか?

    ヘルマン・ヘッセはフランツ・カフカの作品をどのように批評していたのでしょうか?

  • 深町秋生の序二段日記

    そういえば麻草さんのマンガ解説がおもしろかった。 http://d.hatena.ne.jp/screammachine/20080428(そのマンガ、当にわかってる?) この解説は描き手ならではのもので、一度もマンガを描いたことのない私にはとても新鮮だった。効果線の用い方や人物の動き一つで印象ががらりと変わるのだなあと、マンガの奥深さに触れたような気がした。 これを読んで私も真似をしたくなった。まあ私のフィールドとなると小説である。小説のポイントというのをひとつ提示しておこうと思う。 80年代終わりのころに故中島らもは、小説という媒体は近いうちに滅ぶのではないかとエッセイで書いていた。活字離れがすでに進行していたし、映画テレビという強力かつ多くの情報がつまった媒体が進化した現代では、活字というのは恐竜のように自然と淘汰されていくのではないかという話だった。 昔、それを読んだときは「な

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