1938年10月より学生運動から政治運動へと移り、反英運動を展開する。彼は独立運動組織「われらビルマ人連盟」に入り、1940年8月まで総書記として活動し、ビルマ暦に基く「1300年のストライキ」として知られる一連のストライキ活動を組織した。また民族主義団体「自由ブロック」の結党を援助。1939年8月15日にビルマ共産党が結成された際には、結党メンバーの7人の内の1人となり、初代書記長に就任している[5]。1940年にバー・モウの貧民党と合流し、3月にはインド国民会議にも出席したが、イギリス官憲の逮捕状が出たためアモイへ亡命[4]。さらに中華民国内で逃れようとする[6]が、日中戦争に伴い日本軍によりアモイが陥落し、ビルマ独立を支援することで援蒋ルートの遮断を企図した鈴木敬司大佐により日本へ逃れ箱根の大涌谷に滞在していたという口碑がある[2]。 翌1941年2月、日本の資金援助と軍事援助を約束
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