いろは丸事件での龍馬の対応をまとめてみました。 ○慶応3年4月23日衝突。その夜から翌日にかけ、上陸した(広島県福山市)鞆(とも)で談判。万国公法で決着をつけることを提案。 ○紀州藩明光丸、急用を理由に龍馬たちを残し長崎へ。龍馬たちも怒り長崎へ追いかけて談判再開。 ○航海日誌や談判記録を確保。 ○海援隊のメンバーに「一戦交える覚悟を」と檄をとばす。重ねて航海日誌や談判記録の保全と確認を命令。 ○寺田屋へ一報「ちょっと忙しくなるが心配するな」 ○下関の伊藤助太夫(龍馬が家を借りている人)へ「家には誰も近づけないよう見張りをよろしく」 ○京都の出版元へ「万国公法」の印刷を依頼する。 ○紀州藩の船長らと交渉。以下の事を要求した。紀州藩は「大きい藩」ということを笠に着て威張っていたが、龍馬たちの言い分がもっともなので、タジタジとなり、病気だと言って逃げ回る。 ●土佐の連中を放ったまま出港したのは