歴史に関するwrideのブックマーク (2)

  • いろは丸事件での龍馬の対応 - 高知県立坂本龍馬記念館|調べる|龍馬Q&A

    いろは丸事件での龍馬の対応をまとめてみました。 ○慶応3年4月23日衝突。その夜から翌日にかけ、上陸した(広島県福山市)鞆(とも)で談判。万国公法で決着をつけることを提案。 ○紀州藩明光丸、急用を理由に龍馬たちを残し長崎へ。龍馬たちも怒り長崎へ追いかけて談判再開。 ○航海日誌や談判記録を確保。 ○海援隊のメンバーに「一戦交える覚悟を」と檄をとばす。重ねて航海日誌や談判記録の保全と確認を命令。 ○寺田屋へ一報「ちょっと忙しくなるが心配するな」 ○下関の伊藤助太夫(龍馬が家を借りている人)へ「家には誰も近づけないよう見張りをよろしく」 ○京都の出版元へ「万国公法」の印刷を依頼する。 ○紀州藩の船長らと交渉。以下の事を要求した。紀州藩は「大きい藩」ということを笠に着て威張っていたが、龍馬たちの言い分がもっともなので、タジタジとなり、病気だと言って逃げ回る。  ●土佐の連中を放ったまま出港したのは

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    wride 2014/05/01
  • 江戸町火消、火事装束 ・江戸時代・小袖の完成 日本服飾史 資料・風俗博物館~よみがえる源氏物語の世界~

    江戸時代、消費都市として人口の稠密を見た江戸は又火災も多く、「火事と喧嘩は江戸の花」といわれる程であった。 この火事に対する消防組織は武家屋敷の火災には、大名、旗があたり、町衆は町人自身の消化活動が基となり、はじめは大名による大名火消、ついで万治元年[1658]旗を中心とする定火消、更に寛保3年[1743]町奉行大岡忠相(ただすけ)により町人自身による消防体制の組織化がはかられた。その後の若千の変化はあるが,基は隅田川以西の町々を凡そ20町ごとに47の小組にわけ「いろは」を以て名づけ、又、隅田川以東は16の小組にわけ、纏(まとい)や幟(のぼり)を定めて各自の目印とした。いろはの小組は10番の大組にわけ、隅田川以東の16の小組は南、中、北の大組とされた。町火消は町奉行の監督の下に火消人足改という掛りの与力、同心が担当、指揮したが、経費は町方の自治組織の負担であった。 消化活動は竜吐水

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    wride 2014/05/01
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