当事者性とは、開放性の拠点としての権威であり(理論化の核)、閉鎖的サークルの特権ではない。 当事者性は、ナルシスティックな自己確認や、無条件の崇拝のためにあるのではない。 だからこそ、細心の自衛が必要だ。 犠牲は所有の放棄というよりも、所有への執着に近いように思える。 「車に轢かれそうな子供を救う」のような、咄嗟の自己犠牲(考える前に体が動いている)と、慢性的で持続的な「理念化された自己犠牲」のちがい。――いや、そんなに簡単には分けられないか。理念化された自己犠牲が脊髄反射として起こる、ということも? 「単に自己否定的」な自己犠牲(「どうせ自分なんか」)もあると思う・・・――でも、そこまで考えても、やっぱり「自己犠牲」というのは、鏡像的(ラカン)な営みではないだろうか。 という感じで、考えているうちに「自己犠牲」がわからなくなってきた。▼自分自身を「所有」するのか、他者に「分配」するのか。