加藤清正が肥後を治めるにあたって、新田開発を目的に「馬場楠井手」を慶長13年(西暦1608年)に造った。 この「馬場楠井手」建設にあたっては、どうしてもこの菊陽町曲手~辛川地内の堅い岩盤を底深く掘る必要があった。しかし、水を流すと白川や井手の周辺から流れ込む阿蘇山の火山灰が底にたまるため、底深い井手周辺からたまった土砂を排出するのに大変な労力が必要となる。そこで水の力を利用して土砂を下流に送り出す仕組みが考え出された。まず、堅い岩盤を掘り込む際にいくつかの仕切り壁を残しておき、その壁の下に穴を左右交互にくり抜き、水が渦を巻きながら流れるようにする。この水の動きによって上流から流れてくる火山灰は舞い上がり、底にたまることなく下流に流れるようになるのである。この独創的な工法は、壁に開けられた穴が牛の鼻輪に形状が似ているため、「鼻ぐり井手」と呼ばれる。