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内田樹に関するyamikuro1226のブックマーク (3)

  • 「おせっかいな人」の孤独 - 内田樹の研究室

    鹿児島に行った話を書き忘れていた。 鹿児島大学におつとめの旧友ヤナガワ先生に呼ばれて、鹿児島大学が採択された教育GPの一環として、キャリア教育について一席おうかがいしたのである。 キャリア教育については、もし「労働のモチベーション」をほんとうに上げようと望むなら、「自己利益の追求」という動機を強化しても得るところはない、と私は考えている。 その話をする。 これについては、『潮』と『新潮45』の近刊にも書いているので、繰り返しになるが、私はこう考えている。 「仕事」には「私の仕事」と「あなたの仕事」のほかに「誰の仕事でもない仕事」というものがある。そして、「誰の仕事でもない仕事は私の仕事である」という考え方をする人のことを「働くモチベーションがある人」と呼ぶのである。 道ばたに空き缶が落ちている。 誰が捨てたかしらないけれど、これを拾って、自前のゴミ袋に入れて、「缶・びんのゴミの日」に出すの

    yamikuro1226
    yamikuro1226 2008/12/21
    「災厄は先送りせねばならない」ということと「災厄の芽は気づいた人間が摘まなければならない」ということが私たちの社会の常識に再度登録されるまで、私は同じことを執拗に繰り返さねばならない。
  • 記号的な殺人と喪の儀礼について (内田樹の研究室)

    秋葉原の事件について平川くんが書いている。 http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/ 彼のオフィスは秋葉原だから、まさに目と鼻の先で起きた事件である。 平川くんはこの事件については「よくわからない」という節度を保とうとしている。 確からしいことは、「かれ」は俺たちがまだ見出せていないような「必然」によって社会との繋がりから切断された存在になっていたということだけである。 その「必然」が見えなければこの事件は被害者と加害者というような明確な輪郭を持ってはいても、加害者の中に広がっていった闇については何もわからないままである。 もっと、言うなら、その闇の意味を見出せないままに書かれた「再発防止」の処方は、その闇を隠蔽し、広げるだけだと、俺は思う。 私は最後の部分が平川くんのとくに言いたいことだろうと思う。 無差別に人を殺すことを決意した人間の中にある、私

    yamikuro1226
    yamikuro1226 2008/06/12
    メディアで「正論」を語っている人々の中に「話の途中で、自分の解釈になじまないシグナルに気づいて、最初の解釈を放棄する」人を私は見たことがない。
  • 格差社会論(再録) (内田樹の研究室)

    今回の秋葉原の事件に「格差社会下層」に自分を「格付け」するという「物語」が深く関与していることにはどなたも異論がないだろう。 私は以前そのような「物語」が瀰漫することに、とりわけそれが「政治的に正しい」説明原理として称揚されることについてその危険を指摘したことがある。 『神奈川大学評論』という大学紀要に寄稿したものであるので、大学関係者以外には読まれた方はほとんどおられないであろうから、ここに再録する。 2007年の9月に書かれたものである。 この論考のせいで私は「保守系リベラル」「中道右派」とカテゴライズされることになった(ウィキペディアにはそう書いてある)。 ここに書かれたことのどこが「中道」なのか、どこが「保守」なのか、私にはよくわからないが。 善意の格差論のもたらす害について 内田樹 「格差」という語はそれ自体では価値中立的なものであるが、現在のメディアではこの語は中立的なものとし

    yamikuro1226
    yamikuro1226 2008/06/12
    差異はたまたま自分の口にあるパンについて「私にはそれを占有する権利がある」と思っている人間と、「私にはそれを他者に贈与する権利がある」と思っている人間の間に引かれている。
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