季刊誌「和歌文芸」令和六年春号 ~令和のあたらしい和歌と和歌文化の様々な表現~ 令和六年 正月歌合 夜間梅花 後朝恋 あかね歌会集 春 論考・随想 「ここにもゐでとおもほゆるかな」 ―井出の玉川を訪ねて―/攝津(フィットレル・アーロン) 詩人誕生前夜 ―宮沢賢治の短歌考―/先史 『枕草子』をめぐって ―(二)能因本と三巻本における「花」の付く語―/花野 わたしたち「二条流」歌道とは/圓学
![二条流 令和和歌所 - 伝統的な短歌「和歌」を学び、仲間と詠みあう会](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/a9e82a846136d93724f82fa482e3b4383c070183/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fwakadokoro.com%2Fwp-content%2Fuploads%2F2023%2F09%2Fkajuku2309.png)
東 常縁(とう つねより)は、室町時代中期から戦国時代初期の武将、歌人。郡上東氏第9代[1]。美濃篠脇城主。官職が下野守だったため一般には東野州(とうやしゅう)と称される。 生涯[編集] 武将で歌人でもあった東益之の五男。生年は不詳であるが、明応3年(1494年)に94歳であったとする文献から応永8年(1401年)生とする説や、寛正6年(1465年)に59歳であったとする文献から応永14年(1407年)生とする説がある[2]。 当初は父益之とも交友のあった冷泉派の歌人正徹に学んだが、東家が代々二条派に属していたことも意識してか、宝徳2年(1450年)12月2日、正式に二条派の尭孝の門弟になった[3]。享徳2年(1453年)には左近将監に叙せられた。このころ関東で享徳の乱が発生、康正元年(1455年)、常縁は幕府の命により下向、嫡流の千葉実胤・自胤兄弟を支援し、11月14日の馬加の合戦では勝
「木曾と申す武者、死に侍りにけりな」 これは、木曾義仲と同じ時代を生きた歌人西行(平清盛と同じ年、元北面の武士)が、義仲の戦死を聞いて書きつけた詞書です。突き放したようにも思えるし、あるいは万感をこめたような印象にも思えます 西行が詠んだ和歌は 「木曾人は海のいかりをしずめかねて死出の山にも入りにけるかな」(『聞書集』227) 西行が戦場での死を和歌に詠んだのは、この一首のみとのこと(西澤美仁『西行 魂の旅路』ビギナーズクラシックス 日本の古典・角川ソフィア文庫)。 「木曾人」は木曾義仲のことで、木曾の山ならぬ「死出の山」に入ってしまったとやや諧謔的にその死を詠んでいます。「山」は第2句の「海」と対をなしているのでしょう。この文脈を素直に読めば、「本来は海に碇をおろして停泊するはずだったのに、海の怒りを鎮めることができなくて、海ではなくて山に、しかも死出の山に入ってしまったんだなあ」という
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■武将が好んだ連歌 大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀は、連歌を嗜んでいた。教養人と称される所以である。本能寺の変の直前の『愛宕百韻』は、その代表でもある。 武将が好んだ文芸として、和歌・連歌がある。武将は武芸の修練だけに限らず、和歌や連歌に熱心だった。とりわけ連歌は一体感が必要な文芸だったので、家臣団統制の一環として活用されたといわれている。戦国時代は京都が戦火に晒され、多くの公家が地方に下向し、武将らに和歌・連歌の指導を行った。 以下、光秀の連歌歴を確認することにしよう。 ■光秀の連歌デビュー 光秀が連歌会に初めて参加したのは、永禄11年(1568)11月15日に催された百韻(五・七・五の長句と七・七の短句を交互に連ねて百句に至る形式)興行である。連歌師の里村紹巴(じょうは)の一門である昌叱(しょうしつ)、心前(しんぜん)のほか、細川藤孝(幽斎)ら12名が参加して催された。 紹
雑草の二人静は悲しけれ 一つ咲くより 花咲かぬより ― 与謝野晶子 【現代訳】 二人静が咲いている。二本の花穂が伸び、小さな白い花を咲かせる二人静。雑草のように野の道にあって、向き合うように並び咲く二人静は、一つだけ咲…
鴨長明は『無名抄』に洞察力を極めた歌論を「近代の歌体」と題して展開している。 71 近代の歌体 1 あるひとが、 「この頃の人たちの歌に対する見方は二つに分かれているように思えます。中頃の歌風(※1)を良し、と、する歌人たちは、今様の歌風(※2)を、単に難解な言葉をならべつらねていると受けとめて達磨宗(※3)などと嘲笑っています。 その一方で今様の歌風を良し、と、する歌人たちは、中頃の歌風を俗っぽくて見るところがないと嫌っているようです。 そうなると中頃と今様の歌風の優劣を論じているはずのものが、あたかも中頃宗と今様宗といった宗派間論争の様相を呈してとても判定など出来ないでしよう。これから歌の道を学ぼうとする人たちはこういう状況に対してどのような心得を持てばよいのでしようか」と、問うと、 ある人は、 「中頃の歌風と今様の歌風のどちらが優れているか、が、この頃の歌壇の大きな論争になっているの
法然、親鸞についての書き込みをすすめるための予備知識として、この辺で「顕密体制論」について、私なりに少し説明しておきたいと思います。 鎌倉時代および中世の仏教というと、普通は、法然、親鸞の浄土宗(浄土真宗)、日蓮の日蓮宗、道元の曹洞宗など、この時代に登場した新しい宗派を思い浮かべ、その教説の革新性が多くの人を魅了し、社会にひろがっていったというイメージをもつかと思います。 これらの教説(宗派)が、平安末から鎌倉時代にかけて次々に登場したということ自体はそれでいいのですが、第二次大戦後、中世史の研究、なかでも鎌倉時代の社会の研究が進むにつれ、こうした新しい宗派がただちに社会に受け入れられ、大きく広がったということに対する疑問が出されるようになってきました。 また、戦後まもなくの中世史は、中世=武士の自己実現の時代という階級闘争的テーゼのもとにすすめられてきましたが、はたして武士だけが時代の主
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