山本 幡男(やまもと はたお、1908年〈明治41年〉9月10日[1] - 1954年〈昭和29年〉8月25日[2])は、第二次世界大戦終結後に旧ソビエト連邦によるシベリア抑留を経験した日本人の一人。日本への帰国が絶望的な状況下において、強制収容所(ラーゲリ)内の日本人俘虜たちに日本の文化と帰国への希望を広め、一同の精神的支柱になり続けた。自身は帰国の夢が叶わず収容所内で病死したが、死の間際に家族宛ての遺書を遺しており、同志たちがその文面を暗記することで日本の遺族へ届けたことでも知られる。島根県知夫郡西ノ島の黒木村大字大山島(現:隠岐郡西ノ島町大山地区[11])出身[12]。 経歴[編集] シベリア抑留までの経緯[編集] 六人兄妹の長男として誕生した[1]。父親は地元の小学校の校長であった[12]。山本もまた、旧制松江中学校で優秀な成績を収めており[1]、副級長を務めていた[13]。運動こ
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