「会津・庄内を討て」 戊辰戦争の舞台は東北地方に移ります。 官軍の照準はぴたり「朝敵・会津」です。新政府は1868年2月10日、仙台藩に対し「会津藩追討令」を出します。あわせて秋田、盛岡、米沢の各藩には、仙台藩を支援するよう命じました。 会津を討つか、救うか、仙台藩内部の意見は分かれましたが、首席家老らは、「会津征討」に強い疑問を抱いていました。 新政府側は、鳥羽・伏見の戦いで、幕府・会津側が先に発砲したことを「朝敵」の理由に挙げていました。ところが、徳川方は薩摩勢の発砲にやむを得ず応戦したと主張し、明確でなかったからです。 それだけではありません。徳川慶喜は政権を返上し、朝廷に背く意図もない以上、追討の必要はない。そもそも、「禁門の変」で朝敵とされた長州藩には、「寛大な処置」がとられたではなかったか。加えて、再び内戦となれば、諸外国はいかなる動きに出るか計り知れず、国辱を万国にさらすこと