ブックマーク / takekuma.cocolog-nifty.com (5)

  • 『サルまん2.0』連載は中止しました: たけくまメモ

    すでに先行発売の『IKKI』をお読みの読者はご存じだと思いますが、相原コージ氏と俺が昨年秋から連載を始めていた『サルまん2.0』は、日25日発売の「IKKI」七月号をもって終了することになりました。ご愛読くださっていた読者の皆さんには、大変申し訳ありませんでした。 連載中止に至る経緯は最終回に書きましたので、そちらをご覧ください。公式ブログおよび「たけくまメモ」でも改めて事態を説明するエントリを準備しています。が、準備が整わない段階でネットで噂が広まりはじめたようなので、とりあえず緊急告知としてこのエントリをアップしました。 正式な発表エントリは日夜(深夜になるかも)に発表する予定ですが、現時点で言えることは、これは編集判断による「打ち切り」ではなく作者サイドから「中止」を申し入れたということ、中止は作者二人で話し合って決めたことであることです。 中止の理由は雑誌に書いたとおりで、詳し

  • ●「ぼくら語り」の夜明け・後編: たけくまメモ

    ←「まんがコミュニケーション」1971年6月創刊2号 「まんコミ」71年6月号に掲載された、斉藤次郎編集長の手によると思われる「コミュニケーション405」には、こういう文章もあります。 《まんがをまんがで語る “まんがブームの終り”の寸劇が街で評判をとっている。一時の頂点、「少年マガジン」誌百五十万部突破は、すでによきムカシバナシとして出版界の酒宴の酒の肴になりきろうとしている。(中略) おびただしい数の読者がまんが雑誌から、無言に別離した。その別離の距離が狂おしいまんが雑誌のたそがれに向かって告知している。その距離のなかに、表現欲求の延長上にまんがを表現メディアとする層が定着した、まんがを表現の武器として、しかも、まんがの内側から、まんがでまんがを語り、絵ときするものと「まんコミ」は、グルになり、その鼓動を伝え合う。そのとき“まんがブームの終り”がある》 これも晦渋な文章ですね。少し説明

  • ●「ぼくら語り」の夜明け・前編: たけくまメモ

    ←まんがコミュニケーション1971年6月創刊第二号 来なら今回は『「まんがエリート」と「おたく」の間に』の続きで、1975年の第一回コミックマーケットの開催と同じ年に、パロディサブカル誌「ビックリハウス」が創刊されて、70年代サブカル状況が整備されてきた話を書こうと思っていました。ところが昨日棚を整理していたら、大昔に入手していた「まんがコミュニケーション」(略称「まんコミ」)71年6月号というミニコミがひょっこり出てきました。今となってはかなり珍しいシロモノです。71年に実質休刊した「COM」と、75年に始まったコミケとをつなぐミッシング・リンクのような雑誌なんですよ。読み返したら、団塊直下=プレおたく世代の気分がそのまま真空パックされたような内容でしたので、予定を変更して紹介したいと思います。 「まんコミ」については、2005年に発行された『コミックマーケット30'sファイル』(有

  • アニメ産業に関する公文書: たけくまメモ

    ちょっと古くて平成15年の経済産業省の公文書なんですが、こんなのを見つけました。ちょうど『千と千尋の神隠し』がヒットしたあとのものみたいです。 http://www.meti.go.jp/policy/media_contents/downloadfiles/kobetsugenjyokadai/anime200306.pdf ↑経済産業省 アニメーション産業の現状と課題(pdf) 注意して読んで欲しいのはこのPDFファイルの5ページ目。「テレビアニメーション番組ビジネス(例)」の部分。一応「例」ってなってるんですけど、経産省のれっきとした公文書ですからね(上記ファイルから引用・左図)。有名な資料かもしれませんが、恥ずかしながらさっきネットサーフィンしていて初めて見ました。 これによると、スポンサーから1あたり5000万出ている制作費が、なんだかんだで現場に着く頃には800万になっている

  • たけくまメモ : ダダカン再訪記―藝術仏の近況

    ←「少年サンデー」1971年3月21日号「へんな芸術」特集に掲載されたダダカン師の写真。撮影/羽永光利、「Quick Japan」96年2月vol.6に再掲。 昨日、日帰りで仙台に行き、ほぼ9年ぶりにダダカンこと糸井貫二師にお会いしてきました。96年に俺が「クイック・ジャパン」でダダカン師を取材し、98年の拙著『篦棒(ベラボー)な人々』に収録したのですが、それがこの12月に河出書房新社から文庫化されるため、挨拶に伺ったのです(文庫発売は10月と告知してましたが、諸事情で12月初旬になりました)。 ダダカン師は日におけるハプニング・アート、全裸行動芸術の開祖的存在であり、1964年の東京オリンピックに刺激を受け銀座の路上で丸めた新聞紙で赤フンドシをくるんだものを聖火に見立ててて全裸で走り、お巡りさんに捕まったり、1970年の大阪万博で太陽の塔を赤軍派が占拠した事件のときには、数百人の機動隊

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