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ブックマーク / blog.tinect.jp (4)

  • 中年が人生に輝きを取り戻す、唯一のコツ

    むかし、「35歳を過ぎると、急に頑張らなくなる」という話を書きました。 「中年の危機」です。 なぜ35歳を超えると頑張らなくなるのか。それはロールプレイングゲームの終盤と同じだから。 私の世代であれば、ドラゴンクエストや、ファイナルファンタジーといったRPGに熱中した方も多いだろう。 だが、私は「最後までやりきったゲーム」が異常に少ない。 なぜなら、いつもラストダンジョンになると、やる気を失ってしまうからだ。 序盤はとても面白い。自分が強くなる実感が得られるし、新しい世界が次々に広がっていく。 ところが、中盤を経て、終盤になると、とたんにゲームはつまらなくなる。 作業的なレベル上げ。 探検しつくされた世界。 有り余るお金。 そうだ。 操作するキャラクターは強くなっているはずなのに、そこには「可能性」が無くなっているのである。 キャラクターが育ち、謎がとけ、世界の広がる可能性だ。 「可能性」

    中年が人生に輝きを取り戻す、唯一のコツ
    yhachisu
    yhachisu 2024/07/26
    最近生まれて初めてダンスを習い始めて楽しいです。
  • 「シン・エヴァを見て三回泣いた」というフレーズに驚き、打ちのめされた。

    この文章は『シン・エヴァンゲリオン』についての文章というより、シン・エヴァンゲリオンの想定ファン層についての文章、いや、シン・エヴァンゲリオンの思い出話をとおして再認識した「なかなかシンクロしにくい感性」についての文章だ。 先月から今月にかけて、シン・エヴァンゲリオンについてのzoom飲み会を二度経験した。 参加者はどちらも1996年頃から『新世紀エヴァンゲリオン』を愛好し、楽しみにしてきた古参エヴァファンだったので、積もる話に花が咲いた。 『シン・エヴァンゲリオン』については、公開から一か月以上が経ってたくさんのことが語られたから、以下のような話はどこかで語られているかもしれない。 それでも『シン・エヴァンゲリオン』も含めた21世紀のヱヴァンゲリヲンと、1995~97年に放映されて青少年が熱狂した『新世紀エヴァンゲリオン』の違い、なにより、それを楽しむファンの感性の違いについて、きっと誰

    「シン・エヴァを見て三回泣いた」というフレーズに驚き、打ちのめされた。
    yhachisu
    yhachisu 2021/04/20
    懸命に生きる人を見ると泣いてしまう。子どもを守るために戦う人を見ると泣いてしまう。不幸だった人が幸せになれそうだと泣いてしまう。25年前とは比べ物にならないほど涙もろくなった。悪くない。
  • 前澤さんのお金配りを見て、毎日、自分が「当たらない側」だと認識するようになった。

    前にダイエットでジムに通っていた友達が 「ジムで自分が頑張って走り込んでる時、隣にダラダラとサボってる人がいると、ものすっごいイラッとするんだよね」 と言っていたのを聞いて笑ってしまった事があった。 この話をにしたところ 「わかるわー。私も家で家事してる時、あんたがスマホいじってるとイラッとするもん」 と返されて僕は真顔になってしまった。 このように人は自分と他人を比較して幸・不幸を感じる傾向があり、その影響は無視できないほどに大きい。 隣人の年収が増えると、人は不幸になる 理想をいえば、自分は自分、他人は他人である。 けど、現実は他人の不幸は蜜の味である。 不幸を願うまでもいかなくても、私達は他人を当に強く意識して生きている。 例えば「幸福の計算式」というの中で 同僚の収入が”増える”と、自分の収入が”同じ額無くなる”ように感じて辛くなるという、衝撃的な研究結果が紹介されている。

    前澤さんのお金配りを見て、毎日、自分が「当たらない側」だと認識するようになった。
    yhachisu
    yhachisu 2020/09/03
    10万とかのお金を配るからフォロー&RTして、というのをRTしてる人を見ると、息苦しさを感じる。
  • 日本社会では成果よりも「みんなと一緒に」という美徳が信頼の源泉になっている。

    たとえば体育の授業で、ゴールネットとか重いものを運ぶときにみんなで運ぶんだけど人が多すぎて手を添えて持ってるフリするみたいなことがあると思うんだけど社会に出るとあのときみたいな気分が蘇る場面がある。 — 方便 (@ryohoben) June 30, 2016 日人あるあるの一つ、「みんな一緒に重いものを運んでいる時には、実際には不要でも、手を添えて持っているフリをしなければならない」。 今から現場に加わっても負担が減らせるわけでも、効率が良くなるわけでもないのに、それでも現場に加わって”やっている感”を出さなければならない場面は、学校でも職場でも珍しいものではない。 あるいは、職場や現場で自分の仕事が先に終わった時にも、堂々と昼寝をしていたりソリティアをしていたりしたら色々まずい……と感じる場面もあるはずだ。 そういうシチュエーションでは、当は手持無沙汰でも、仕事をやっているような体

    日本社会では成果よりも「みんなと一緒に」という美徳が信頼の源泉になっている。
    yhachisu
    yhachisu 2020/06/06
    フリーはいいぞ
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