昨日の三一節の盧武鉉演説は事のほか見所に乏しく、あれで記事1本書く値打ちは無いでしょうから簡単に済ませます。 もともと三一節というのは日本統治からの独立を求める運動(らしきもの)を記念していた筈ですが、昨今では逆に「韓国が未来永劫日本への依存から抜け切れないこと」を再確認する為にやっているのではないかとすら思えて来るほど、日本への注文ばかりが並ぶ演説が多いのは皮肉なことです。 昨年の三一節に盧武鉉が対日賠償請求──1965年の日韓基本条約締結時に「完全かつ最終的に決着」した筈の──に言及したのですが、今年の演説にあった「日本は既に謝罪した。我々は更なる謝罪を求めない。謝罪にふさわしい行動を求めるだけである」というのはその路線を踏襲するものでしょう。こうやって決着済みの事案を蒸し返し「たかれるだけたかる」ことを恥としない辺り、支那──特に江沢民以後の──の対日外交を多分に模倣したフシが見られ