cakesに連載している書評の、五木寛之『風に吹かれて』の回(参照・後編)で、テーマに近いながらも、あえて扱わなかった話があり、書かなくてもよいのだけど、なんとなく気になるので書いておきたい。 扱わなかったのには理由があった。一つは、版によっては関連の章が掲載されていないことだ。もう一つはメッセージの受け取りが難しいことだ。 風に吹かれて (角川文庫) 五木寛之自選文庫 エッセイシリーズ cakesの連載書評には、「新しい古典」と通しタイトルがあるように、これからの時代で新しい古典として読まれそうな書籍を扱っているが、古典であることの条件の一つは、読み継がれることだ。そして「読み継がれる」というのは多くの場合、いくつか異なる版の存在を意味する。 そこでまず、初版・初出と現在流布している版の比較が重要になる。『風に吹かれて』についても、いくつかの版を検討したところ、ごく基本的なレベルで、掲載
理解は記憶の最大の援軍であるが、記憶もまた、ある水準を越えると、理解を助けることができる。 このことは、とりわけ独学者にとって朗報だ。 理解を助ける直接的な支援=誰かに教えてもらうことが難しい独学者にとって、他に打つ手があるということだから。 しかし理解を助ける域にまで記憶が達するには、正確かつ高速に想起することができる必要がある。 流暢に引き出せる知識は、忘れにくく、妨害されにくいだけでなく、応用されやすい。 思い出すことを要しないほど定着した記憶は、認知リソースをほとんど消費しない。 したがって、そこで浮いた分を複雑な処理に回すことができる。 例えば、掛け算の九九をマスターした人と、7×6を7を6回足して計算する人が、同じ方程式を解くことを想像しよう。 九九をマスターした人は、ただ解くのが速いだけでなく、正確であり、より楽により複雑なものを処理できる。 7を6回足すのに費やされるワーキ
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