ブックマーク / hi-hyou.com (4)

  • “Japanese Farewell Song”は誰が創ったのか? | 批評.COM

    1979年にぼくは細野晴臣さんの弟子のようなことを始めた。「渋谷ヤマハのベース教室」の講師を細野さんが務めるという噂が流れ、店頭に行ってみるとたしかに「細野晴臣のベース教室」の告知があった。当時、大学生だったぼくはギターは弾いたが、ベースは弾かない。ベースも持っていたが、人からもらったグレコの、リッケンバッカー・モデルのコピーで、あまりいいベースではなかった。ベースを習いたいとも思っていなかった。一瞬、迷ったが、なんとなくの勘で、「細野さんがベースを教えるわけがない。きっと自らのYMOにいたる音楽遍歴をレクチャするに違いない」と予想し、意を決して申し込んだ。細野さんたちが始めたばかりのYMOは、まだあまり理解されていなかった。皆、YMOといわず、「イエロー」と通称していた時代の話だ。 指定された日に行ったら10人程度の受講生が集まっていた。ベースを習いたいという人が多数派だったが(そのなか

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  • 知名定男、喜納昌吉、照屋林賢の歴史的共演 | 批評.COM

    批評.COM Welcome to Hi-hyou.com  時事批評・音楽批評などを掲載するサイトです。2015年4月18日新装開店。Operated by SHINOHARA Akira 知名定男、喜納昌吉、照屋林賢が共演するという話を聴いても俄に信じられなかった。3人が同じステージに立つ日のことなど考えたこともなかった。縁起でもない話で恐縮だが、3人のうち誰かが亡くなって追悼ライブが行われたとしても、他の2人が同じステージに立つことはないと密かに予想していた。林賢とは親しい間柄だが、知名定男や喜納昌吉にインタビューしたこともある。そうした経験知からいって、共演などまずありえない話だと信じていた。 3人とも独自の音楽を構築して沖縄大衆音楽の世界で頂点に立ち、一家を成したアーティストである。民謡大家の父(知名定繁・喜納昌永・照屋林助)をもつという共通点もあるが、米軍占領下にあった島の中で

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  • のりこえねっと共同代表・上野千鶴子氏の「変節」と社会学者・北田暁大氏の批判

    批評.COM Welcome to Hi-hyou.com  時事批評・音楽批評などを掲載するサイトです。2015年4月18日新装開店。Operated by SHINOHARA Akira 東京大学名誉教授でのりこえねっと共同代表の上野千鶴子氏の「奇妙な変節」については、新聞記事の掲載以来関心を持ってみています。以下は、上野氏の主張が問題になった2017年2月11日付の中日新聞「考える広場」からの引用です。 移民政策について言うと、私は客観的に無理、主観的にはやめた方がいいと思っています。 客観的には、日は労働開国にかじを切ろうとしたさなかに世界的な排外主義の波にぶつかってしまった。大量の移民の受け入れなど不可能です。 主観的な観測としては、移民は日にとってツケが大き過ぎる。トランプ米大統領は「アメリカ・ファースト」と言いましたが、日は「ニッポン・オンリー」の国。単一民族神話が信じ

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  • 補助金漬けになった沖縄のロック | 批評.COM

    書こうか書くまいか数か月迷っていた。が、資料を読んでいるうちにふつふつと怒りのようなものがこみあげてきたので、結局書くことにした。ちょっとした告発である。 ぼくは沖縄の民謡だけでなくロックにも光を当てるや記事を山のように書いてきたつもりだ。1990年代後半からは、沖縄の新聞にも、ロックや民謡を核とした地域再生を提案する論説を寄稿してきた。音楽に冷淡だった役所にも足を運んだ。地域の音楽を元気づけるために、財政資金を投入する必要があるともいいつづけた。 2000年代に入って、役所が音楽振興にチカラを入れるようになった。そのこと自体けっして悪いことじゃないが、「補助金漬けロックを育てよ」といった憶えはさらさらない。 ところが、沖縄のロックは今や政府の補助金なくして生きられない体質になりつつある。「ロックと補助金」なんて、ありえない異様な取り合わせだが、沖縄(とくに民謡やロックの拠点である沖縄市

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