1979年にぼくは細野晴臣さんの弟子のようなことを始めた。「渋谷ヤマハのベース教室」の講師を細野さんが務めるという噂が流れ、店頭に行ってみるとたしかに「細野晴臣のベース教室」の告知があった。当時、大学生だったぼくはギターは弾いたが、ベースは弾かない。ベースも持っていたが、人からもらったグレコの、リッケンバッカー・モデルのコピーで、あまりいいベースではなかった。ベースを習いたいとも思っていなかった。一瞬、迷ったが、なんとなくの勘で、「細野さんがベースを教えるわけがない。きっと自らのYMOにいたる音楽遍歴をレクチャするに違いない」と予想し、意を決して申し込んだ。細野さんたちが始めたばかりのYMOは、まだあまり理解されていなかった。皆、YMOといわず、「イエロー」と通称していた時代の話だ。 指定された日に行ったら10人程度の受講生が集まっていた。ベースを習いたいという人が多数派だったが(そのなか
![“Japanese Farewell Song”は誰が創ったのか? | 批評.COM](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/be5bcbfe91ed6e5e3366f132e727a2bfa43a4595/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fhi-hyou.com%2Fwp-content%2Fthemes%2Fgush2%2Fimages%2Fhihyou02.png)