中野の空襲被害は、昭和19年11月24日、鷺宮二丁目の子ども4人が流れ弾を受けて死亡したのに始まります。本格的に空襲に見舞われたのは12月27日、以来20年5月25日の山の手大空襲まで計7回の空襲を受け、区内の大半を焼失しました。 中野区の空襲被害の状況については、次のリンク先をご覧ください。 中野の空襲 昭和19年になると戦局はますます悪化し、戦場となってしまった都市は、もはや子どもたちにとっては、安全な生活の場ではなくなりました。空襲の心配のない農村地帯に向けて子どもたちの集団大移動が始まったのは、昭和19年の晩夏でした。 中野区では昭和19年8月初旬に区長と校長と後援会長(奉仕会長)が協議し、区南部の各国民学校は長野県へ、区北部の各国民学校は福島県へと割り当てました。 中野区の学童疎開についての詳細は、次のリンク先をご覧ください。 学童疎開 昭和59年に、中野区では区民の方に提供して