ブックマーク / storys.jp (2)

  • 【共働きの両親へ】いつもいなかったから、大事だった-限られた時間が私達兄妹に与えてくれたもの

    「せめて子どもが小学校を卒業するまでは、家にいてあげたい」 社会人生活を11年間過ごす間に、そう言って仕事を辞めていった友人や同僚を何人も見てきた。 彼女達の気持ちは、私にも分かる。私に子どもはいないが、おなかを痛めて産んだわが子はきっと側に居るほど可愛くて、せめて小学校までの大切な時期を側で見守りたいと思うのは、ごくごく自然なことだろう。 しかも、どこにどんな残酷な人間が紛れているか分からない昨今。小さな子どもを置いて働きに出ていたら気になって仕方ないはず。「見えないところでいじめられていたらどうしよう」とか、「寂しい思いをさせていたら」とか、「お腹を空かせて泣いていたら」とか。 考え始めたらキリがないだろうな、と思う。 それでも私は、自身の経験から子どもを預けての夫婦共働きも悪くないとはっきり言える。 働く両親。 家にずっと居て、自分達の世話だけをしてくれる母親に憧れたこともあったけれ

    【共働きの両親へ】いつもいなかったから、大事だった-限られた時間が私達兄妹に与えてくれたもの
  • ロッキングオン創刊の物語 / 橘川 幸夫 | STORYS.JP

    1970年という年の記憶には冬がない。何か暑いマグマが一年を覆っていたような記憶しかない。70年というのは、「70年アンポ反対」のスローガンにあったように、日米安全保障条約の改定期であり、そこに向けての学生たちの反対闘争があったわけだが、実際のその年になるまでに学生たちの主力は敗北していた。1969年の4月28日の沖縄反戦デーを境に、アンポは粉砕されないという思いが、群雲のように学生たちの心に広がっていた。先鋭化した学生と労働者の一部が赤軍や京浜安保共闘などへと傾斜していったが、彼らと、後続の大部隊との距離は離れていくばかりだった。 そんな時代の中でも、特に新宿は一年中暑かったような気がする。信号を渡るのを待つ人も、伊勢丹で買い物をする人も、青蛾でコーヒーを飲む人も、みんな熱にうなされたように殺気立っていた。それは、学生だけではなく、サラリーマンも主婦も、そして交番の警察官はもちろん熱くな

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