思えばクィアとは、自分たちの求める物語の供給が不足しているためか、ダブルミーニングの表現・解釈を好んだり、一見して抑圧的に映る聖書を自分たちがエンカレッジされるようなテキストに読み替えるなどして、<存在>の拠り所、<欲望>の居場所を見つけてきたのだよなぁ。そういう営みを否定することは、人生の模索を否定することにつながりかねないのかもしれない。とりわけ、<欲望>の生存可能性の否定という文脈で。クィアリーディングも、また腐のやおい読みもしかり、なのだろうか…。 本日、掲示板などネットをうろうろしていたら、「勝手に〜〜と〜〜をカップリングするなよ、他の人らが誤解するだろうが。原作者も恋愛とは違う友情だと言っているのに」という台詞を百合界隈で聞いたのだけれど、えー、作者が読者の読み方に何か注文つけることなんて原理的に不可能なんだから、「原作者が〜って言ってた」なんてのは本当どうでもいいことじゃない