剣道の全日本女子選手権が3日、武道の「聖地」、東京・日本武道館で初めて開催され、男子の全日本選手権と同時に日本一が争われた。10度目の出場で記念の大会を制した近藤美洸6段(警視庁)は「特別な場所で試合ができて良かった」と喜びをかみしめた。全日本女子は1962年から行われ、今年で63回目と歴史がある。学校教育などで普及振興が進み、居合道、杖道を含む初段合格者の女子の比率は、全日本剣道連盟に記録が
依田郁子、1964年 依田 郁子(よだ いくこ、1938年9月30日 - 1983年10月14日[1])は、日本の陸上競技選手。専門は短距離走・ハードル競走。女子80mハードルの元日本記録保持者で、1964年東京オリンピック日本代表として同種目で入賞を果たした。 長野県小県郡丸子町(現・上田市)出身。長野県上田染谷丘高等学校卒業。結婚後の姓名は宮丸 郁子(みやまる いくこ)。 中学3年生のとき肋膜炎と肺炎にかかり上田染谷丘高校の受験に失敗、同校の定時制に入るが翌1955年に再受験して全日制に入学した[2]。同校は当時バスケットボールの強豪で身体能力を見込まれた依田はバスケット部の勧誘を受けるも、「私は個人主義だからバスケは向かない」と陸上部に入部する[2]。高校1年の時に全国高校陸上大会の200mに出場した。その冬、陸上部の指導教員からハードルの練習を指示されて転向する。これは80mハード
日本卓球協会より、2020年(令和2年)6月1日に改定・実施する日本卓球ルールの概要が示された。今回の改定は2019年5月31日および2020年1月1日の国際卓球連盟のルール改定を受けたもの。また、一部、国内ルールの文言修正も行われる。改定箇所は次の通り。 第1章 基本ルール 1.10 ポイント 1.10.1.7 相手競技者が故意にボールを続けて2回以上打った場合。 第2章 競技ルール 2.2.3 競技条件 2.2.3.1 競技領域は、長さ14m、幅7m以上の長方形で、高さ5m以上なければならない。しかし四隅は、長さ1.5m以下のフェンスで斜めに囲むことができる。車椅子を使用する競技会では、競技領域を狭くすることができるが、長さ8m幅6mより狭くてはならない。ベテラン競技会では、競技領域を狭くすることができるが、長さ10m幅5mより狭くてはならない。 2.2.5 広告とマーキング 2.2.
公益財団法人日本スポーツ協会(にほんスポーツきょうかい、英: Japan Sport Association、略称: JSPO)は、日本の中央競技団体および各都道府県の体育協会を統括する団体。 発足当時の名称は「大日本體育協會」であったが、1948年に「日本体育協会」に変更[2]。2017年6月23日の評議員会並びに臨時理事会の決定により、2018年4月1日付で組織名称を「日本スポーツ協会」に変更した[3][4]。 英語表記はJapan Sport Associationで、略称はJSPO(Japan Sport Association)[3][5]。2018年の改名以前は略称としてJASA(Japan Sports Association) が用いられていた。元々の英語表記はJapan Amateur Sports Associationでこの頭文字を取ってJASAであったが、2005年
一般財団法人日本ボクシングコミッション(にほんボクシングコミッション、英:Japan Boxing Commission、JBC)は、日本においてプロボクシング競技を統轄する機関。1952年4月21日に設立された。世界ボクシング協会(WBA)・世界ボクシング評議会(WBC)・国際ボクシング連盟(IBF)・世界ボクシング機構(WBO)・東洋太平洋ボクシング連盟(OPBF)に加盟している。 なお本項ではWBA、WBC、IBF、WBOを総称として「主要4団体」とする。 1935年までには、田邊宗英を会長とする帝国拳闘協会が設立された[1]。戦前には、「拳闘保護法案」が企画されたり、ボクシングに関する法律を法制化しようという動きがあった。これらは実現しなかった。 その後、1952年に日本ボクシングコミッション(JBC)が設立するまで、ジムの経営者の集まりによって日本のプロボクシングは管理されること
ニューヨークにあるグリーソンズ・ジムの内部 一般的なトレーニングジムと異なり、サンドバッグなどのボクシングの練習に必要な機器やリングなどが設置してある。ジムごとに指導に当たるトレーナーが所属している場合がある。 日本の場合は相撲部屋を参考にした「クラブ制度」と呼ばれる独自のシステムが敷かれている。これはジムが選手(あるいはそれを目指す練習生)を直接所属として抱えるという仕組みである。プロの場合は日本ボクシングコミッション(JBC)が発行するクラブオーナーライセンスを取得した者がクラブの長(大半のジムでは肩書きは「会長」となるが、稀に「代表」と呼ばれる場合もある)としてジムの管理運営に当たっている。プロモーターは、興業力を持つクラブオーナーが兼任したり、プロモーターライセンスを持つジム運営母体のスタッフが務めたりする場合が多いが、プロモーター不在の零細ジムも存在する。なお、プロモーターについ
大阪帝拳ジム。ただし現在は移転。 1926年7月、上海に無断で遠征したことで渡辺勇次郎率いる日本拳闘倶楽部から破門された荻野貞行が新橋駅近くに「帝国拳闘協会拳道社」として設立[1][2][3]。実業家だった荻野の父の紹介により後に日本ボクシングコミッション(JBC)初代コミッショナーとなる田邊宗英が初代会長に就任し、師範に荻野、助師範に佐藤東洋、滝沢吉助、吉本武雄、マネージャーとして荻野とは立教大学の同級生だった本田明が参加した[4][5]。現存する国内ボクシングジムでは東京拳闘会に次いで2番目に古い。田邊会長が後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)の取締役になるとともに本田マネージャーが2代目会長に就任し、戦後の1946年に「帝拳株式会社」として法人化、ジム名を「王子拳道会」とした後、1954年より現ジム名[6]。王子拳道会時代には日本初の世界王者になる前の白井義男も所属していた。 1965
東洋太平洋ボクシング連盟(英: Oriental and Pacific Boxing Federation, OPBF)は、アジアとオセアニア地域を統括するボクシング団体。世界ボクシング評議会(WBC)傘下の組織。本部は加盟国の持ち回りとなっており、2018年から本部は日本にある。 1954年10月27日に日本、フィリピン、タイ王国の3か国で東洋ボクシング連盟(OBF)を結成[1][2]して始まる。本部はフィリピンに置かれ、マヌエル・ニエトが初代会長に就任。なお、戦前に存在した東洋ボクシング連盟(OBF)との繋がりはない。 1963年にWBC創設に参加、1977年11月にオーストラリアおよびニュージーランドの加盟が承認され、東洋太平洋ボクシング連盟(OPBF)と改称される。 2008年11月3日に、中国の成都で開催された世界ボクシング評議会(WBC)の年次総会で、OPBFの本部をオースト
1963年2月14日、WBA、EBU、BBBofC、ラテンアメリカプロボクシング連合 (LAPBU)、東洋ボクシング連盟 (OBF)(後のOPBF)が、対等の立場で討議する機関として世界ボクシング評議会(WBC)を創設。 1965年10月19日、当時のWBC会長国メキシコがWBAを脱退する。カルロス・オルチス対イスマエル・ラグナ、ニノ・ベンベヌチ対サンドロ・マジンギの直接の再戦をWBAが許可したことに抗議。 1968年8月28日、フィリピンがWBAを脱退する。当時、アメリカ合衆国の州コミッションのみが、議決権で国のコミッションと同等であることを批判。同年9月にフィリピンは、第2代のWBC会長国となった。 この後、世界王者のWBA、WBC分立が加速する。 1974年、パナマで開催されたWBA総会でエリアス・コルドバ(パナマ)[1]が、米国・カナダ人以外では初めて会長に選出される。 それ以降、
WBCのチャンピオンベルト 世界ボクシング評議会(せかいボクシングひょうぎかい、英: World Boxing Council, WBC)は、プロボクシングの世界王座認定団体の一つ。本部はメキシコのメキシコシティにある。 元々は世界ボクシング協会(WBA)、ヨーロッパボクシング連合(EBU)、英国ボクシング管理委員会(BBBofC)、ラテンアメリカプロボクシング連合(LAPBU)、東洋ボクシング連盟(OBF)が対等の立場で討議する機関として1963年2月14日に設立[1][2]。その後、分立志向を強め、1966年8月27日にWBAとは別に、独自のルールと世界ランキングを発表して、完全に分裂した[3][4][5]。主要4団体中、加盟国が最も多いプロボクシング世界王者認定団体。4ラウンドごとにポイント採点を公表する。フリーノックダウン制(※何度ダウンしても10カウント以内に立ち上がってファイテ
紀元前4000年ごろの古代エジプトの象形文字から軍隊で使われていたことが判読されており、クレタ島の紀元前3000年ごろのエーゲ文明の遺跡からも、ボクシングの図が書かれた壺が発見されている[2]。 古代ギリシア語では握りしめた拳をPUGMEといい、それからPUXOS(箱)となった。古代オリンピックでは第23回大会から正式種目となり、オノマストスが月桂冠をうけた。この時代は全裸でオリーブ・オイルを塗り、拳には鋲を皮のバンデージのような物で包んだグローブのような物を着用、腕や肘でも攻撃できたようだ。この当時はラウンドは無く、どちらかが戦闘不能、またはギブアップ(右手の人差し指を天に突き上げるとギブアップになったらしい)で勝負がつく。この競技は第38回大会まで続けられた。この競技からパンクラチオンが生まれた。 ローマ時代に入ってギリシア語から羅: PUGILATUS(拳での戦い)、羅: PUGIL
IBFのチャンピオンベルトは男女で色が異なる。手前の赤は男子用、奥の水色は女子用。 国際ボクシング連盟(こくさいボクシングれんめい、International Boxing Federation, IBF)は、プロボクシングの世界王座認定団体の一つ。本部は設立当初はアメリカ合衆国ニュージャージー州イーストラザフォードであったが、同じニュージャージー州のニューアークを経て、同じくニュージャージー州のスプリングフィールドに移転している。 母体は世界ボクシング協会(WBA)傘下で作られた全米ボクシング協会(USBA)で、1979年に北米ボクシング連盟(NABF)加盟州およびニューヨークを除く米国各州コミッションを加盟団体として発足。従ってのちにもアメリカ選手の活躍が多い傾向にある。なお、ジョン・マケインが設立した合衆国ボクシング管理庁(USBA)は無関係である。 1983年、USBA国際部が設立
世界ボクシング機構(せかいボクシングきこう、World Boxing Organization / WBO)は、プロボクシングの世界王座認定団体の一つである。世界ボクシング協会(WBA)から分裂して1988年に設立された。本部はプエルトリコのサンフアンにある。現会長はフランシスコ・バルカルセル。 1988年のWBAの会長選挙結果を受け、カリブ地域の反対派とアメリカ合衆国の有力プロモーターの思惑が一致し分派、ルイス・サラス、アルベルト・アレマンらがWBAから独立し発足した。 発足当初は、シュガー・レイ・レナードに対抗するトーマス・ハーンズが複数階級制覇のため安易に利用するなどマイナータイトルの域を出なかったが、1990年代に入りオスカー・デ・ラ・ホーヤの活躍で徐々に認知度がアップ。その後、1990年代後半になるとナジーム・ハメド、マルコ・アントニオ・バレラ、アセリノ・フレイタス、ビタリ・クリ
小田急電鉄9000形 まだあった紙サボ臨時板・・・ 名前: まっちゃん [2002/04/01,21:19:57] No.712 【サムネ】 ツイート これまた紙サボ特集みたいになってきました! 以前アップした2400系と同じようなものが装着された、9004Fの写真が出てきま したので・・・。 相模大野4番線に入ろうとしているところで、またまた暗くなってしまいました。 画像タイトル 行先はどこだった? -(110 KB) 小田急電鉄2600形 紙サボの「臨時」 名前: 3号線海側どうぞ [2002/04/01,19:17:58] No.707 【サムネ】 ツイート 昨日、このギャラリーの過去の写真を遡っていたら、3月5日に西口様がアップされた「朝日オリエンテーリング号」の写真を見つけました。 偶然、私も同じ列車らしき列車を撮っていたのを思い出し、何か急に親近感を覚えてしまい紹介させていただ
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