映像作品と哲学に関するyuta3_21のブックマーク (3)

  • 「ぼく」が「ぼくら」へとつながる意義――「とらドラ!」に見る後期近代と、そこにおける生の存在論的根拠―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    とらドラにオラクル不在問題(俺命名)について少し書くことにする。 この問題は「週末に「とらドラ!」の原作読んだけどよ」という増田のエントリの中で取り上げられ、それに対し有村悠氏が「『とらドラ!』について少し考えてみた」というエントリーにおいて、大体の要点を抑えたアンサーをしているのだが、これについてもう少し深く掘り下げたり我田引水してみたい。具体的には、オラクルが「物語中で」「登場人物によって」希求されているにも関わらず「不在であること」の意味――「『みんなが物事を自分ひとりで解決していかねばならない』という困難の存在」の理由と意味を、もう少し深く考えてみようと思う。 この問題に対して、増田は共同体の崩壊に、有村氏はより限定的に家族共同体の崩壊にその理由を見出したのだが、これは「再帰的近代化」における「ゲマインシャフトのゲゼルシャフト化」によるものだといえる。社会システムの発展と高度経済成

    「ぼく」が「ぼくら」へとつながる意義――「とらドラ!」に見る後期近代と、そこにおける生の存在論的根拠―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 押井守の世界観 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    押井守の作品製作姿勢について語っていたサイトがあって、そこからインスパイアされたのでメモ。 押井の場合、世界とは意識が生み出す解釈像であり、意識とは自己と現象世界の間主観的関係によって生じるという認識がある。意識には自己と現象世界双方に対する接近不可能性がある。意識というシステムは意識というシステムを形成している自己や現象世界といった「外部」に対してアプローチできないのだ。ゆえに意識は意識自体を生きざるを得ないし、「あえてそれを」生きねばならない。その「接近不可能性」とは「事物の質性の経験不可能性」でもある。ゆえに、押井の描く物語は常に主観的かつ解釈学的になる。 その上で、押井は「意識があえてそれ自体を生きる物語」をメタ視点で見下ろし、物語であるというメッセージを繰り返し周到に配置する。それにより、我々の生きている世界もまた、押井の描く物語世界の住人がはまり込んでいるような主観的・解釈学

    押井守の世界観 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    諸般の事情により更新停止します。これまでの記事は残しておきます。それでは。 岡和田晃氏の「海外のわけのわからないものより身近なサブカルチャーを褒めろ?」(http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20110411/p2)というエントリですが、実はこれ、ぼくに対する個人攻撃エントリなのです。以下にその次第を説明しておきます。 まずぼくが、Twitterで一連のエントリを書きました。 岡和田晃氏は「エクリプス・フェイズ」に世界内戦の問題意識を見ているようですが、ぼくとしては「ダブルクロス」に世界内戦の問題意識を見出していきたい。だってFEARゲーって批評文脈で全く語られないし、そのくせプレイヤー層は厚いじゃないですか>http://ux.nu/TKs42G http://twitter.com/crow_henmi/status/56045322346041344 ダブルクロスは

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