昨日付けの日記の話の言い換え。 大奥第三巻207頁のあのシーンは、たとえば映画やアニメではやりづらい。それは時間と意味の含め方の話で、この4コマをそのまま映画に入れると、一瞬で流れてしまう。ほんの数秒か、あるいは秒に満たぬ場面だからだ。では、伊豆守の心中に去来することごとを、回想シーンとして挿入してみるか。しかしそれらは、疫病と、経済構造と、階級支配と、愛憎劇と、老女の偏執と、英雄の諦念とだ。それではほとんど、大奥のそこまでの展開を再演するのと変わらない。いったいこのシーンで何秒の時間を流せばいいのか。いずれ無理のある話だ。 では小説ならどうか。小説では、一同の、伊豆守の顔だけを描写して済ますことができない。文章はその意味を書いてしまう。内実をすぐに語ってしまう。というのは、文章はフォーカスの合ったものを説明せずにはいがたいからだ。フォーカスを合わせておきながらそれを説明しないでいるという