「地域主権改革」の真の狙いは「善政競争」ではなく、むしろ「悪政」の正当化なのでしょう。 これによって行政が「悪政」や劣化の状態で低下しても、自由競争の結果だから、それはそれで正しいのだ、としたいのがこれの目指すところでしょう。 すでにそれは起こりつつあります。 なので、自由競争なんだからそれで正しい、と自由競争を絶対の神のような位置付けにおいてそれによって何でも正当化するのではなく、逆に、だから自由競争(という建前)は人間を幸せにしないことも多い、むしろ不毛な競争と考えるべきでしょう。
原理的に言えば「更生の可能性は0%ということはあり得ない」というはなしはこの際脇において蓋然性の問題として考えるなら、確かに「更生するとは思えない」と言わざるを得ないような事例が存在するだろうことは認めてもよい。しかし死刑という刑罰は「更生が可能だったかどうか」の検証を不可能としてしまうのであるから、更生可能性が主たる争点(の一つ)となっている場合には特に慎重な検討が要求されることは言うまでもない。 今回の判決では被告人が未成年であることが報道で強調されているが、同時に事件から判決まで1年も経っていないことも無視できない。「反省」ってそんなに簡単なことか? と言いたくなる。これで控訴でもすれば「やっぱり反省してなかった」と言われるのだろうか。しかし控訴せずに死刑になったとしても何人が「しまった、反省してたのかもしれない」と考えるだろうか。 判決を受けた読売新聞の社説は次のように書いている。
時間、といってもたかだか70年ほどのこと。 本当はこういう比較はしたくない(し、すべきでもない)のだが、在日「朝鮮」人や「朝鮮」学校の生徒(およびその保護者)が一糸乱れず北朝鮮を無批判に支持しているとかそろいもそろってコントロールされているかのような妄想をだだ漏れにする輩が後を絶たないので。ちょっと想像してみてほしい。70年ほど前の日系アメリカ人(日系アメリカ軍将兵や在米アメリカ人を含む)が当時の大日本帝国−−「現人神」なる観念を公式に唱え、「神風」を頼りに人間が操縦する航空機を敵艦に突入させ、爆薬を抱えた歩兵を敵戦車に突っ込ませ、“女子供”や年寄りに鎌や鉈を持たせてまで「本土決戦」をやると叫んでいた、自らのルーツ−−に対してどのような思いを抱いていたであろうか、を。妄想に凝り固まった狂信的、抑圧的な軍事国家などあっさり見捨て「敵」と割り切って叩き潰すのが当然だろJK! と思うのか、あんた
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