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哲学に関するzephyrcradleのブックマーク (9)

  • ワニのパラドックス - Wikipedia

    ワニのパラドックスは、自己言及のパラドックスのひとつ。人いワニのジレンマともいわれる。このパラドックスは、古くはルキアノスの著作『人生登攀』22-23にも見え、不思議の国のアリスの作者として知られる数学者ルイス・キャロルが、クロコディルズ(ラテン語: crocodilus)というタイトルで発表した[1][2]。 A Crocodile had stolen a Baby off the banks of the Nile. The Mother implored him to restore her darling. "Well," said the Crocodile, "if you say truly what I shall do I will restore it: if not, I will devour it." "You will devour it!" cried t

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    zephyrcradle 2010/01/08
    「自分がこれから何をするか言い当てたら、子供を食わないが、不正解なら食う」と言った。これに対し、母親が「あなたはその子を食うでしょう」といった場合。確かに矛盾する。
  • ことば 第十一集

    一緒にテレビを見られなくて寂しかった。 My Ex-girlfriend's TV [YouTube] それはあなたの生き方 ハル 「あなたは優しい人」 「ううん、僕は悪い人です」 「あなたは悪い人じゃない。それはあなたの生き方」 純粋な気持ちだけだは立ち向かえないものから 「フナ子の顔をすることで、あなたは何を守ってきたの?」 「純粋な気持ちだけだは立ち向かえないものから」 そこに進まなきゃいない 強い気持ちが描かれている 船崎和恵 [保存] [保存] 「BL系マンガの魅力は?」 「(男性同士の恋愛という)やってはいけない事を前提にして だけどそこに進まなきゃいけない それだけの強い気持ちが描かれていて 好きとかいう言葉を超えた、何か愛情みたいな物が 純粋な気持ちみたいな物がそこにはあるような気がして…ハマってしまいました。」 命なら二番目さ 源氏 / 高河ゆん 誰だってひとつくらいは命

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    zephyrcradle 2009/02/04
    「この世界と同じくらい大きな鋼鉄の玉があり、一匹の蠅が百万年に一度その上に止まるものとしよう。鋼鉄の玉がすりへってすべてなくなったとき、 永遠はまだはじまってもいないのだ。」
  • バター猫のパラドックス - Wikipedia

    起こりうる事態について描かれた漫画 バターのパラドックス(バターねこのパラドックス)は、2つの言い伝えを皮肉った組み合わせに基づいた逆説である。 は常に足を下にして着地する(参照:ネコひねり問題) バターを塗ったトーストは常にバターを塗った面を下にして着地する(参照:選択的重力の法則) もしバターを塗ったトーストを(バターを塗った面を上にして)の背中へくくり付けて、ある高さからを落としたらどうなるかを考えた場合、この逆説が発生する。 もし実際にを落とすならば、2つの最終結果のうちのどちらか一方は決して起こらないことになる。もしが足を下にして着地すれば、トーストはバターが塗られた面が上になったままだし、逆にバターが塗られた面が下になって着地するならば、は背中から着地することになるはずだ。 この逆説は言い伝えを皮肉った組み合わせが起源であるが、この2つの規則が常に正しいと仮定した

    バター猫のパラドックス - Wikipedia
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    zephyrcradle 2008/12/15
    「もしバターを塗ったトーストを(バターを塗った面を上にして)猫の背中へくくり付けて、ある高さから猫を落としたらどうなるかを考えた場合、この逆説が発生する」
  • 自然の斉一性 - Wikipedia

    自然の斉一性原理(しぜんのせいいつせいげんり、 principle of the uniformity of nature)または単に斉一性原理とは、科学哲学の世界で用いられる言葉で「自然界で起きる出来事は全くデタラメに生起するわけではなく、何らかの秩序があり、同じような条件のもとでは、同じ現象がくりかえされるはずだ」という仮定[1]。18世紀スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームが懐疑的に批判した帰納法の確実性を再検討する形で、推論の一種である枚挙的帰納法を成立させるために必要な前提として、ジョン・スチュアート・ミルが提唱した[2]。自然の一様性原理[3][4]とも訳される。 自然の斉一性という言葉が示す内容は、具体的にはいくつかのバリエーションがある。 「自然法則は、時間的な変化をしない。自然現象の起こり方に変化が生じた場合、それはその自然法則の内部でなんらかの条件が変化したため

    自然の斉一性 - Wikipedia
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    zephyrcradle 2008/10/07
    「「自然界で起きる出来事は全くデタラメに生起するわけではなく、何らかの秩序があり、同じような条件のもとでは、同じ現象がくりかえされるはずだ」という仮定」
  • オッカムの剃刀 - Wikipedia

    三浦俊彦が描いたオッカムの剃刀の説明図[1]。三浦はオッカムの剃刀について「ある事実Pを同様に説明できるのであれば仮説の数(または措定される実体の数)は少ないほうが良い」とするものだと説明した。 オッカムの剃刀(オッカムのかみそり、英: Occam's razor、Ockham's razor)とは、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」とする指針。14世紀の哲学者・神学者のオッカムが多用したことで有名になった。21世紀の現代医学は、オッカムの剃刀の概念を少し時代遅れにし、あらゆるリスクの管理を見直すべきだという指摘がある[2]。 もともとはスコラ哲学における流儀であり、様々なバリエーションがあるが、20世紀にはその妥当性を巡って科学界で議論が生じた。「剃刀」という言葉は「説明に不要な存在を切り落とすこと」を比喩しており、「説明するために必要以上に多くの仮定を用

    オッカムの剃刀 - Wikipedia
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    zephyrcradle 2008/10/07
    「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くの実体を仮定するべきでない」
  • World Wide Walker

    1 finalventの日記 - いうまでもなく地球は滅亡するそれにしても、必ず滅亡するとわかっていてなぜ地球生命は存在するのだろうか。finalventの日記 - いうまでもなく地球は滅亡する現実には「生命って、そこまで考えて無いんじゃね?」と思わなくもないが、例えば「ディアスポラ/グレッグ・イーガン」では、情報生命体と化した人類(ないし人類の延長上に存在する知性体)が、この時空の宇宙寿命を越えて存在・思考する姿が描かれている。単なる SF のお話ではあるが、知性の電子化はこの先 50年ほどで起こり得る話かなと思う。それを生命と呼ぶかはその時に議論になるのだろうけど。 仮に人類がそこまで辿り着かなくても、どこかの宇宙のどこかの星のどこかの生命はそうした存在まで辿り着くかも知れない。そう考えると、生命と知性の誕生と成長というのは、実はあちこちで行われている壮大な生き残り実験のように感じなく

  • 哲学で博士号取る予定の俺が、どんな質問にも哲学的に答える:ハムスター速報 2ろぐ

    1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。:2007/07/25(水) 17:09:20.28 ID:Ecteuiyz0 アカポスとか就職とか、俺がになる質問以外。 2 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。:2007/07/25(水) 17:09:49.38 ID:sR2Rucw20 世界中の童貞はどうしたら救われるのか・・・? >>2 セクロスしても救われるとは限らない、ってのが問題だよな。 信仰からの回答が一番手っ取り早い。信仰を持て、正当化しろ、価値観をひっくり返せ ニーチェは読むな、これに尽きる。 4 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。:2007/07/25(水) 17:10:02.67 ID:W7cwMSVl0 悪の起源 >>4 悪ってのは、関係性の中に成立する。 つまり、善が存在するためには悪がなければならない。 フーコーが権力装置概

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    zephyrcradle 2008/10/06
    ここで出てくる単語を拾ってWikipediaするだけでも参考になる。
  • アプリオリ - Wikipedia

    アプリオリ(羅: a priori)とは、「より先のものから」を意味するラテン語表現。中世スコラ学においては「原因・原理から始める演繹的な(推論・議論・認識方法)」という意味で用いられていたが、カント以降は「経験に先立つ先天的・生得的・先験的な(人間の認識条件・認識構造)」という意味で用いられるようになった[1]。 「わたしは何を知ることができるか」「わたしは何をなすべきか」を問い、自然や人間を認識する「理性」(理論理性)の限界を明らかにするために批判哲学を打ち立てた18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、哲学もまた数学や自然科学にならって、必然的で普遍的な思考方法を獲得しなければならないと主張した。そして、そのためには、人間のあらゆる経験から独立して、理性自身が認識のわく組みを決めることができなければならない、とした。これが「アプリオリな認識」である(アプリオリな認識のうち、経験的な

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    zephyrcradle 2008/10/05
    経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念
  • ヘンペルのカラス - Wikipedia

    ヘンペルのカラス (英: Hempel's ravens) とは、ドイツのカール・ヘンペルが1940年代に提出した、帰納法が抱える根的な問題(「帰納法の問題(英語版)」)を喚起する問題である。「カラスのパラドックス」とも呼ばれるが、パラドックスとして扱うべきかどうかには異論もある[1]。 「ヘンペルのカラス」は「全てのカラスは黒い[注釈 1]」という命題を証明する以下のような対偶論法を指す[1]。 「AならばBである」という命題の真偽は、その対偶「BでないものはAでない」の真偽と必ず同値となる[2][3][4]。全称命題「全てのカラスは黒い」という命題はその対偶「全ての黒くないものはカラスでない」と同値であるので、これを証明すれば良い[2][3]。そして「全ての黒くないものはカラスでない」という命題は、世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがないことをチェックすれば証明

    ヘンペルのカラス - Wikipedia
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    zephyrcradle 2008/10/05
    「カラスは黒い」ということを、カラスを一羽も調べなくとも証明する方法
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