ブックマーク / yamatai.cside.com (3)

  • 第251回活動記録

    ■ 『隋書』「倭国伝」の記述 『隋書』「倭国伝」の隋の開皇20年(600年)に、次のような記述がある。開皇20年は推古天皇6年にあたり、聖徳太子が活躍していたころの日の状況が記されているのだが、その内容については問題がある。 開皇二十年、倭王の姓は阿毎(あめ)字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)号し て阿輩弥(あほけみ)というもの、使を遣わして闕(けつ)に詣(いた)らしむ。 上(しよう)、所司(しょし)をして其の風俗を訪ね令む。 使者言う、「倭王は天を 以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺 (かふ)して、坐(ざ)す。日出ずれば便(すなわ)ち理務を停め、我が弟に委ねんと 云う」と。 高祖曰く、「此れ太(はなは)だ義理無し」と。 是に於いて訓して、之を改め令む。 王のは弥(けみ)と号す。 後宮には女六七百人有。太子を名づけて利歌弥多弗利(りかみたふり

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    zu2 2020/09/17
  • 第328回活動記録

    第328回 邪馬台国の会 吉備津彦の命の墓、大彦の命の墓、丹波の道主(たにはのちぬし)の命の墓、武渟川別(たけぬなかわけ)の命の墓 四道将軍の派遣と四道将軍の墓 前方後円墳は時代が新しくなると、前方部が発達してくる。また造出しがつくられるようになる。 そこで、横軸に、前方部幅/後円部径×100をとり、縱軸に、前方部幅/墳丘全長×100をとって、グラフにすると、下図のようになり、左下が古く、右上が新しい古墳と言える。これは川西宏幸氏による円筒埴輪の形式(Ⅰ~Ⅴ)からも表せ、古い形式Ⅰは左下、新しい形式Ⅴは右上になる。造出しがあるものが新しい古墳になる。 その中で、崇神天皇の古墳は左下より少し右にある。その付近に中山茶臼山古墳(吉備津彦の命の墓)、川柳将軍塚古墳(大彦の命の墓)、神明山古墳(丹波の道主の命の墓)などがある。 (下図はクリックすると大きくなります) 記紀は、崇神天皇が四道将軍を各

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    zu2 2014/05/22
  • 第223回活動記録 旧石器捏造事件 誰も書かなかった真相

    1.旧石器捏造事件の現状 事件発覚からまだ3年しかたっていないのに、藤村新一ただ一人に罪をかぶせたまま忘れられようとしている。 藤村が関与した遺跡のみを2年半かけて再調査したが、なにも出てこなかった。捏造された遺跡からなにも出ないのは当然である。 25年間発掘を行ってきた東北旧石器研究所が解散した。資料や証拠品が散逸し隠される可能性がある。 2.藤村ひとりを断罪することへの疑問 藤村は発掘現場の一作業員。論文も読めないし石器の図面も書けない。25年間藤村一人で捏造が続けられるわけがない。 25年間に160以上の発掘現場で、専門家である現場監督の誰ひとり藤村の捏造を見抜けないなんてことはあり得ない。 藤村の手記は、黒塗りされてしまったが、共犯者がいたことをにおわせる記述がある 京都女子大学の野田正彰教授(精神病理学)は、悪の主役は藤村以外にあると次のように述べる。 彼(藤村)の話には真実もあ

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    zu2 2014/04/13
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