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ブックマーク / ida-10.hatenablog.com (10)

  • 仙台の津波と都市計画 - mezzanine

    昨年に仙台に赴任して、初めて仙台市内の高層ビルから目にした仙台の風景に、異様な感じがしたのをよく覚えている。 仙台市内のビルからは遠く太平洋まで望むことができるが、太平洋側を見渡したとき、仙台の「市街地」と、市街地の周囲に太平洋まで広がる「農地」との区分のコントラストが鮮やかに見えたからだと思う。 高いところから見ると、仙台市の沿岸地域が田畑などの農地として利用されているのがよくわかるが、この風景は、湾岸を積極的に開発してきた東京で過ごしてきた私にとっては新鮮に見えた。 これは東京に限らず、大阪、福岡、広島といった海沿いに発展してきた大都市をみてもそうだが、都市の発展は沿岸・水辺の開発とセットになっている、という固定観念があるせいなのだろう。 しかし、仙台はこれらの水辺に広がる都市とは対照的である。海から離れた青葉山に城を築き、そこを起点に街が広がった、といった趣がある。宅地も、海沿いでは

    仙台の津波と都市計画 - mezzanine
    oriono
    oriono 2011/04/04
    「結論からいえば、この仙台市の区域区分(引用者注:ゾーニング)のありかたが、東北地方太平洋沖地震での津波の被害を結果的に最小限にとどめたように思う」
  • 屋根の空間、屋根の可能性−隈研吾「根津美術館」 - mezzanine

    隈研吾「根津美術館」(2009年) 日・東洋の古美術を収蔵・展示する根津美術館。和風を思わせる渋い外観。 屋根・軒 正門からのアプローチ。軒下の空間。 アプローチの壁面には竹が並ぶ。 庭園より館を望む。20,000坪の庭園側には瓦屋根による表情をみせる。 3年半の閉館期間を経た東京・青山の根津美術館が、10月7日に新たな装いとなって開館した。 この新・根津美術館の建築設計を行ったのは隈研吾(隈研吾建築都市設計事務所)。90年代以降、日の各地で設計活動を行い、いまや世界の各地に活動範囲を広げ、日の建築界を牽引している建築家である。 隈は90年代、建築のオブジェクト性を否定し(=反オブジェクト)、そして「負ける」というレトリックを用いて活動を展開してきた。威圧的で、自己中心的で、ものものしい建築の否定。それは例えば「亀老山展望台」で建築を地中に消し去り、「石の美術館」では石積みの壁をル

    屋根の空間、屋根の可能性−隈研吾「根津美術館」 - mezzanine
    oriono
    oriono 2009/10/25
    「しかしここ数年の作品において、これまであまり見られなかった建築言語が隈の建築において積極的に用いられているのが散見されるようになったように思う。それが「切妻屋根」である」
  • 愛媛県の建築 - mezzanine

    愛媛県の建築をGoogleマップにプロットしたものを公開。松山城や道後温泉館といったものから、「坂の上の雲ミュージアム」のような現代建築まで広く扱っています。 より大きな地図で 愛媛県の建築 を表示 この地図は、愛媛の建築のアーカイブ・ブログ「百家全所 愛媛」と連動。 http://ehime-archipedia.blogspot.com/ これまでの記事は次のとおり。 愛媛県庁舎(木子七郎) 萬翠荘(愛媛県美術館分館郷土美術館)(木子七郎) エリエール松山ゲストハウス・エリエール美術館(安藤忠雄) 坂の上の雲ミュージアム(安藤忠雄) 亀老山展望台(隈研吾) 伊丹十三記念館(中村好古) 日土小学校(松村正恒) こうしたプロジェクトに私も具体的に関わり、愛媛県の建築のアーカイブ化・紹介に協力することになりました。地方と建築、というテーマを深めていければと考えています。

    愛媛県の建築 - mezzanine
    oriono
    oriono 2009/10/05
    「地方と建築、というテーマを深めていければと考えています」
  • 三津駅舎と建築の歴史 - mezzanine

    四国松山といえばまず挙げられるのが「道後温泉」であるが、私がこのところ注目しているのが松山の古くからの港町「三津(三津浜)」である。 松山市の中心部から外れたこの地区は、その港町としての特徴に注目され、松山市のまちづくり活動の根幹をなす「『坂の上の雲』フィールドミュージアム構想」のサブセンターゾーンのひとつとして位置づけられている。市をひとつのミュージアムと見立て、松山市に関連の深い、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」を下敷きに松山の各地を繋いでいこうとするものだが、地元のNPOの三津に根差した活動もあり、松山市民の三津に対する眼差しも少しずつ変化を見せているようにも思える。 これまで何度かにわたり三津の建築などを紹介してきたが、あらためて訪れてみると、なんともいえないのどかな感じが、春の気候とあいまって、漂っているようだった。ノスタルジーなんて言葉で片付けたくないものだが、三津のそこかしこに

    三津駅舎と建築の歴史 - mezzanine
    oriono
    oriono 2009/04/20
    改装された三津駅舎のレプリカとしての完成度の低さについて。道後温泉駅舎の完成度は高いという立場。
  • 『1995年以後』世代の建築家は世界をいかに切り開くか? - mezzanine

    1995年以後~次世代建築家の語る建築 作者: 藤村龍至,TEAM ROUNDABOUT出版社/メーカー: エクスナレッジ発売日: 2009/02/20メディア: 単行購入: 6人 クリック: 52回この商品を含むブログ (31件) を見る 建築家の世代論 ―30代という意味 『1995年以後 次世代建築家の語る現代の都市と建築』(編著:藤村龍至 /TEAM ROUNDABOUT)は、1971年以降生まれの若手建築家・研究者ら32組へのインタビュー集である。インタビュアーは1976年生まれの建築家藤村龍至と、藤村を中心とする"TEAM ROUNDABOUT"のメンバー。建築関連のイベント「LIVE ROUNDABOUT JOURNAL」の企画、フリーペーパー「ROUNDABOUT JOURNAL」の出版と精力的に活動する彼らの初の書籍である。 ここで取り上げられた「1971年以降」の若手

    『1995年以後』世代の建築家は世界をいかに切り開くか? - mezzanine
    oriono
    oriono 2009/03/06
    「建築界における世代論は様々に語られてきたが、建築家にとって「30代」には、特別な意味があるように思う」
  • スターハウスについて−松山市・東石井県営住宅 - mezzanine

    松山市内から国道33号線を南下し、伊丹十三記念館(参考)から川沿いを上流に少し入った辺りの住宅地に、東石井県営住宅がある。私の通っていた小学校の学区内にあり、「団地」といえばここの県営住宅を指した。 なんてことのない団地だが、団地マニアの間で「スターハウス」と呼ばれる特徴的な形式を持っている。スターハウスとはY字型の平面を持つ団地のことで、中心に階段室を置き、そこから3つの住戸が突き出すように配置されている。 大きな地図で見る 団地というと、南面に窓・ベランダが並び、東西に長い平面をもつものが思い出されるだろう。低コストで日の南面信仰にも合致し、「超高層マンション」なんて無かった時代の最も合理的な形式といえるだろう。 戦後の団地の原点は昭和22年の都営高輪アパートであるそうで*1、昭和30年に日住宅公団がスタートしてから、30年代は団地の全盛期となる。しかし、量的な要求の高まりとともに

    スターハウスについて−松山市・東石井県営住宅 - mezzanine
    oriono
    oriono 2009/01/08
    「団地というと、南面に窓・ベランダが並び、東西に長い平面をもつものが思い出されるだろう。低コストで日本の南面信仰にも合致し、「超高層マンション」なんて無かった時代の最も合理的な形式といえるだろう」
  • 三津駅、高浜駅という兄弟駅舎 - mezzanine

    松山には路面電車の軌道が敷かれていて、この軌道のある中心市街地の辺りを、松山に暮らす人は「街」と呼ぶ。街では、漱石の『坊っちゃん』の冒頭でマッチ箱のような、と揶揄された坊っちゃん列車が復刻され、この軌道を走ってもいる。この車輌を走らせる伊予鉄道は、路面電車だけではなく、松山「市」駅を中心に放射状に伸びる三の郊外線も持つ。その一が高浜線である。松山の中心から三津を通り、港へと延びる路線、その終点が高浜駅だ。藩政期から松山の海の顔だった三津から、北に3、4キロほどの距離にある高浜に港が移されたのは明治20年代のことで、1892年(M25)には高浜まで鉄道が延伸された。現在でも伊予鉄道・高浜線の終点駅はこの駅である。 現在の高浜駅の駅舎は大正期に建てられたものとされる。今見るとただの古めかしい駅舎と映るのだろうが、軒に残る軒板飾りの跡や、天井にそれとなく施された意匠を目にすると、当時のこの駅

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  • 松山・三津浜の建築の織り成す風景 −石崎汽船ほか - mezzanine

    松山・三津浜をふらふら歩いた記録の続き。 松山の海の玄関口の一つ、三津浜(三津)には古い建物が比較的残っている。松山が空襲を受けた際、三津浜は戦災を受けなかったからだそうだ。前回触れた「三津駅」はそのような歴史を生き抜いてきた証人といえそうだが、今回は、そのほかの様々な建築に目を向けてみたい。 三津浜港のすぐそばに建つ、石崎汽船社。木子七郎(きご・しちろう)が設計し、1924年に建てられたRC造の建築である。 設計者の木子は、愛媛出身の新田長次郎の娘婿となったことから、松山の建築を手がけてきた。近代以降の愛媛の建築を牽引したトップバッターだといっていいだろう。代表作といえる萬翠荘(旧久松伯爵邸、1922年)と愛媛県庁舎(1929年)はともに松山城のふもとに建つ建築で、萬翠荘は「坂の上の雲ミュージアム(設計:安藤忠雄)」が建てられたことで、あらためて光が当てられるようになった。 さて、三

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  • 松山市 大街道商店街の空室状況 - mezzanine

    故郷の愛媛県・松山に少しだけ帰省した。 * 松山市の中心部、通称「街」に飲みに行くついでに、あらためてラフォーレ原宿・松山を拝む。この建物は今年1月に閉館した。今回訪れてみると、建物はまだ残っているが、もちろん中には入れない状況だった。 2008年8月のラフォーレ原宿・松山 2008年1月のラフォーレ原宿・松山 閉館と、閉館後の店舗の行方については以前書いた。 ラフォーレ原宿・松山の閉館とその後の行方について - 中二階からラフォーレ原宿・松山の閉館とその後の行方について 今回は、その店舗の行く先を見てみようと中心商店街「大街道」を少し歩いてみた。 この商店街は、いくつかある松山の顔の一つであることは確かで、お盆の最終日であるにもかかわらずいくらかの人手があった。しかし商店街の建物にいくつかの空室が見られたので、その様子を地図にプロットしてみることにした。そうしてあらためて見てみると、ある

    松山市 大街道商店街の空室状況 - mezzanine
    oriono
    oriono 2008/08/23
    俺がなかなかできないこと。>「経過をつぶさに観察するしかない」
  • ラフォーレ原宿・松山の閉館とその後の行方について - mezzanine

    松山市の中心部、大街道駅前にあるラフォーレ原宿・松山は待ち合わせスポットの一つで、とりわけ10−20代の若者にとっては松山の顔。そのファサードの改修*1を手がけたのが、アストリッド・クラインとマーク・ダイサムによるクラインダイサム・アーキテクツ(参考)で、愛媛のみかんを思わせるオレンジ色が… …と続けたいところだが、このビル、今週末の1/27に閉館するようだ。ニュースで知ってはいたものの、地元の旧友と話すと松山人の落胆や危機感がいかに大きいものかを感じ、私自身も高校時代にここで青春時代を過ごした一人として看過できない問題であるように迫ってくるものがあった。 所有者のひとつである森ビル(株)のプレスリリースによると、 当館の建物は、最も旧い部分(第一期部分)で昭和43年築となり、いわゆる旧耐震設計に基づく建築物です。このたび、耐震診断を実施した結果、当社といたしましては、ご入居者(テナント)

    ラフォーレ原宿・松山の閉館とその後の行方について - mezzanine
    oriono
    oriono 2008/07/24
    テナントの移転先をGoogleMapにプロットしてある。これ面白いよ。集積レベルの品揃えの形成過程が変わる!と言い張れるような気がする。
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