私の両親は、日本の植民地だった朝鮮の慶尚南道(キョンサンナムド)から渡来しました。翌1940年、私は広島市で生まれた。韓国は生みの親、日本は育ての親のようなものです。 人間には知恵がある。互いに引くところは引き、話し合えば片づかないものはないというのに、なぜ争うのか。政治は分かりませんが、喧嘩(けんか)してもどっちにもマイナス。その最たるものが戦争です。5歳だった「あの夏」は忘れない。 その時、家を出るところでした。自宅は爆心地から2キロと離れていなかった。でも海抜約70メートルの比治(ひじ)山が、熱線を遮ってくれました。家屋は全壊し、意識が戻り最初に記憶しているのは、私らをかばって覆いかぶさっていた母の血の赤い色。先に逃げなさいと言われ、近くのブドウ畑に避難した。人肉の焼ける強烈な臭い。叫声を上げながら、近くの猿猴(えんこう)川に飛び込み亡くなっていく人々。夜通し続くうめき声。 2日ぐら