アメリカ合衆国オハイオ州チリコシー出身。同州のマイアミ大学を卒業後、父の経営する牧場で牧畜全般の経験を積み、さらに叔父の牧場で競走馬と肉牛の育成法を学んだ。 開拓次官であった黒田清隆がアメリカ合衆国農務長官ホーレス・ケプロンと親交があった縁から、ケプロンの息子エー・シー・ケプロン(1871年より開拓使顧問)によって開拓使の技術指導者に推挙され、1873年に明治政府との間で1年間の雇用契約を結ぶ(結局、開拓使が廃止されるまで1年契約を繰り返すことになる)。渡日の際、エドウィンは14台の貨車を用いて92頭の牛、100頭の羊、農耕具を日本へ輸送した。 来日当初は東京官園において、北海道へ移住した東北士族団の子弟および開拓使官吏約30人に農畜産の技術指導を行った。その内容は欧米式の近代農法および獣医学であり、特に獣医学に関する指導は西洋獣医学の知識を有する者が1人もいなかった当時の日本において貴重