2017年12月3日のブックマーク (4件)

  • 南京事件否定論の原形・東京裁判弁護側弁駁 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    今年は南京事件が発生した1937年12月13日(南京陥落)から80年、南京軍事法廷判決から70年、東京裁判判決から69年になります*1。 今もなお、南京事件否定論を流布する輩は多いんですが、その否定論者がいつからいるかというと、東京裁判の時にすでに現われ現在の否定論とほぼ同じロジックが確立されています。否定論者は70年間何の進歩もなく、同じことを繰り返すだけということです。 「南京事件論争史―日人は史実をどう認識してきたか (平凡社新書)」より。 (P77-82) 4 否定論の原点になった弁護側の主張 東京裁判における心理過程のなかで、弁護団側の当然の任務として、検察側の立証に疑義をはさみ反論を展開した。そのまとめといえるのが、弁護側最終弁論で弁護側が法廷に提出した付属書「南京事件に関する検察側証拠に対する弁駁書」である。冒頭に「書は、南京事件に関し検察側より提出せられたる書証および人

    南京事件否定論の原形・東京裁判弁護側弁駁 - 誰かの妄想・はてなブログ版
    Apeman
    Apeman 2017/12/03
    否定派は相手の論を踏まえて議論をアップデートすることをしないからなぁ。
  • 戦時性暴力被害者を直接「売春婦」呼ばわりして侮辱した目良浩一氏の同類・藤岡信勝拓殖大学客員教授 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    拓殖大学は戦時性暴力被害者を侮辱する人非人を客員教授にして、資金を提供しているわけですが、差別・人権侵害活動に資金提供するなんて、テロリスト支援大学とでも言うべきかもしれませんね。 で、その藤岡拓大教授はこんなことを言っています。 無法韓国が「慰安婦の記念日」制定へ 平昌五輪危機、拓殖大・藤岡教授「重大な『日韓合意』違反」 11/27(月) 16:56配信 夕刊フジ 8月14日は、1991年に金学順(キム・ハクスン)さんが記者会見し、初めて元慰安婦と名乗り出た日で、「韓国による慰安婦捏造(ねつぞう)キャンペーンの原点となった日」(藤岡氏)といえる。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171127-00000005-ykf-int 実際に名乗り出た性暴力被害者を指して、「慰安婦捏造(ねつぞう)キャンペーンの原点」呼ばわりですよ。これが拓殖大学の教授様の

    戦時性暴力被害者を直接「売春婦」呼ばわりして侮辱した目良浩一氏の同類・藤岡信勝拓殖大学客員教授 - 誰かの妄想・はてなブログ版
    Apeman
    Apeman 2017/12/03
    “こんな愚劣な歴史修正主義者の暴言に対して、ほとんど全てのマスコミや言論人がまともに指摘することすらできない。”
  • 「キモくて金のないオッサン」というだけなら「救うべき綺麗な弱者」だが、この匿名記事はそうではない - 法華狼の日記

    まず「金のない」は当然に貧困問題として、「キモくて」が外見を指しているならルッキズム、「オッサン」が年齢への低評価ならエイジズム……どれも社会がとりくむべき差別問題であることに間違いない。 ルッキズムのない社会ってどんなもの? 日向市のサーファー動画とテッド・チャン「顔の美醜について」 - wezzy|ウェジー ルッキズムとは「外見に基づく差別・偏見」という意味で、レイシズム(人種差別)やセクシズム(性差別)から派生する形で70年代末から使われ始めた、比較的新しい言葉だ(オックスフォード英語辞典より)。 エージズムとは - コトバンク 年齢による差別。特に、高齢者に対する差別。 しかし「キモくて金のないオッサン」という属性をもちだす人は、しばしばそれが他の属性より無視されていると主張し、全ての属性が救われなくてもいいと主張する。この匿名記事もそうだ。 「弱者を救えば最終的には貴方も救われる

    「キモくて金のないオッサン」というだけなら「救うべき綺麗な弱者」だが、この匿名記事はそうではない - 法華狼の日記
    Apeman
    Apeman 2017/12/03
    “ここで匿名記事は弱者の分断に加担している。それこそが批判されるべきこと”
  • 熊本県松橋(まつばせ)町(現宇城市)で殺人を犯した罪に問われ… - 西日本新聞

    県松橋(まつばせ)町(現宇城市)で殺人を犯した罪に問われ、服役した宮田浩喜さんが裁判のやり直しを求めている「松橋事件」。実はこの事件が発生した1985年当時、別の事件で無実を叫び続け、熊地裁に救済を求めていた人がいた ▼松尾政夫さん。54年に松橋の隣町で起きた婦女暴行事件で懲役刑に処せられた。貧しく法律の知識もなかった。59年から78年まで独力で12回にわたって再審を請求。いずれも書類不備などの理由で棄却された ▼窮状を救ったのは大阪の相馬達雄弁護士。目撃証言を偏重したずさんな捜査の記録を手弁当で掘り起こし、83年に改めて再審を請求、それが88年に認められた。しかし再審の法廷が開かれる直前に松尾さんは71歳で病死。無罪の判決は翌89年、無人の被告席に向かって言い渡された ▼理不尽にも松尾さんを起訴した検察官は出世街道を歩み、東京高検検事長を経て88年に最高裁判事に就任。運命の落差はあ

    熊本県松橋(まつばせ)町(現宇城市)で殺人を犯した罪に問われ… - 西日本新聞
    Apeman
    Apeman 2017/12/03
    久しぶりに相馬達雄さんの名前を目にした。最近テレビで見かけることがなくなってたけどまだご存命なんだな。